10月4日、東京・渋谷の「ユーロライブ」で、10・8山﨑博昭プロジェクト主催による秋の東京集会「きみが死んだあとで」上映とトークの会が開催された。今回のブログはその会の午前の部の概要である。
「きみが死んだあとで」は、「三里塚のイカロス」の代島治彦監督の最新長編ドキュメンタリー映画である。
コロナ禍の中ということで、感染予防対策を講じた上ての開催だった。
【「きみが死んだあとで」上映とトークの会】
2020.10.4 渋谷ユーロライブ
午前の部 10:00 ~14:45
<主宰者挨拶>
司会:佐々木幹郎
本日はどうもようこそおい出下さいました。2020年秋の山﨑博昭プロジェクトの集会、本日は代島治彦監督の「きみが死んだあとで」の完成披露上映会です。
最初に、当プロジェクトの代表山﨑建夫から挨拶を申し上げます。
山﨑建夫
おはようございます。朝早起きして大阪から飛んできました。
2014年にプロジェクトを立ち上げてから、記念碑を建てよう、ベトナムに行こう、それから記念誌を作ろう、これはちょうど50周年の2017年の10月にすべてやり遂げることができました。本当に応援して下さった皆さまのお陰です。本当に感謝しております。ありがとうございます。
今日は代島監督の映画ですけど、プロジェクトで第1回目に「現認報告書」というのを上映して山本さんのお話を伺いました。その「現認報告書」に関わった大津さんとも親しい関係であられた代島さんが、今回50年目にして新たな映画を作られた。


ある時はカメラなしで、ある時はカメラマンをご一緒させて、僕は3日間取材を受けたんですけど、めちゃくちゃ3日もおったら(生活)全部写されるのではないかと恐れていたんですけども、そこまではなっていないようで安心しました。それで映画の題名が「きみが死んだあとで」、本当にそうなんですね。弟が死んだ後で三里塚闘争、佐世保闘争、大学闘争も起こっているわけで、彼はその後どうなったかは何も知らない。死んだ後での人たちが、もちろん映画にも出てくるわけですけれども、先週すごくうれしい話が飛び込んできたのでご紹介しておきます。
2年前に中央大学の学生さんが取材したいということでお話したんですが、それを基に卒業論文を書かれて、それが認められて中央大学出版局から出される冊子に載ることになった。すごくよかったねと、頼まれて推敲していたんです。そこにメールが入って、関西大学の学生が大阪のプロジェクトの活動や、私たちのことを取材して、これは映像で卒業制作された。これが「地方の時代映像祭」で入賞したと、2つ嬉しいことが重なって、ちょっと嬉しくてクラクラしました。そういう若い人たちが50年後になって、それなりに興味を持ってやって下さる。すごく嬉しいです。
最後に一つお願いです。もし賛同人にまだなってない方がおられましたら賛同人になって下さい。お願いします。それから記念誌も、映画に出てくる人間はほとんど記念誌に投稿しています。記念誌もよかったら買って下さい。
最後にお願いして挨拶に代えます。(拍手)
代島治彦監督と映画出演者登壇
司会進行:佐々木幹郎(大手前高校同学年/詩人)
登壇者
代島治彦監督
1958年埼玉県生まれ。「三里塚のイカロス」(2017年監督)で毎日映画コンクール・ドキュメンタリー映画賞受賞。他の映画作品に「パイナップルツアーズ」(1992年製作)、「まなざしの旅」(2010年監督)、「オロ」(2012年製作)、「三里塚に生きる」(2014年監督)がある。著書に「ミニシアター巡礼」など。
山﨑建夫 (山﨑博昭の兄)
黒瀬 準 (大手前高校同学年/10・8羽田闘争参加者)
向千衣子 (大手前高校同学年/10・8羽田闘争参加者)
山本義隆 (大手前高校先輩/元東大全共闘代表)
佐々木
長い映画でございました。お疲れ様でございます。
これから、東京の今日の午前部に来ておられる出演者と代島監督とのトークを行いたいと思います。
午前の部、そして午後の部もあるんですけれども、遠方から来られる出演者の方は午前は間に合わないので、午後の部の方でトークに出演していただきます。今日は会場の皆さんとも、本当はこのトークの会でいろいろ質問とかそういうことでやりとりをやりたかったんですけれども、どうしても今のコロナ禍の現状ではそのことは禁止されていますので、申し訳ありませんけれども、トークが終わった後、お帰りになる時にアンケートに詳細なメモを書いていただければとても助かります。どうぞよろしくお願いします。
それともう一つ、これからもこの映画の上映の製作実行委員会はカンパを求めております。上映するためにいろいろお金が必要なんですけれども、トークが終わった後、会場の出口でカンパ袋を持った人間がいますので、どうかよろしくお願いいたします。
代島さん、これ撮影が始まったのは何月でしたっけ。
代島監督
え-とですね、2019年の1月から5月くらいにかけて皆さんのところを回って撮影をしました。
何故作ろうと思ったのか、短く言います。山﨑プロジェクトの記録係として2015年くらいからイベントとかいろいろ撮影してきたんですけれども、映像にもありましたけれども、ベトナムへのツアーですね、それに参加して記録したんですが、その時に結構皆さんと触れ合えたんですね。2018年が1968年から50年だったんですね。それでもう一度あの時代を検証するとか、メディアを含めていろんな人たちが、ということがもっと起こるのかなと思っていたら、意外と民博(国立歴史民俗博物館)で展覧会があったりとかしましたけれども、後は当事者が日大闘争だったら日大闘争の当事者が皆で集まるとか、そういうことしか起こらなくて、あれ?何か寂しいなと。僕が憧れた運動はそんなにもう忘れられた存在なのかということで、何かすごく学生運動をやった世代の皆さんが、どっちかと言うと可哀そうに思えてきて、それでちゃんと残そうじゃないかと。それで山﨑博昭プロジェクトに関わっていましたし、山﨑さんの死というものを語る人にいっぱい出会ってきたので、そこから始めて、もう絶対に騒乱というのは表現できないので、山﨑さんの周りにいた人、それから山﨑さんが死んだ後の時代、あるいは山﨑さんが死ぬ前の育った時代を含めて、あの時代っていったい何だったのだろうというのを、その周りの人たちから何かそれを繋げて表現できたらいいなと思って、こんな長い映画になりました。今日はありがとうどざいました。(拍手)
佐々木
実は代島監督が最初編集した時は4時間半という長時間でした。
代島監督
僕はそれで出来たと思っていたんですけれども、佐々木さんも含めて何人かに観ていただいたら、「いや~切れるぜ」という感じで・・・。
佐々木
4時間半観客が持たないということで、ここまでになりました。
時間がありませんので次のお話を聴いていきます。黒瀬さんは今日わざわざ大阪から来ていただいてありがとうございました。映画で2回も歌っていますね。(笑)
黒瀬
あれは監督に言われたんです。
代島監督
いやいや、歌いたいって仰っていたので・・。(笑)
黒瀬
監督はやっぱりインタビューの達人なので、殺し文句をいっぱい皆に言ってうまく喋らせたと思うんですけども、僕には何と言ったと思いますか?
「この映画は黒瀬さんの歌で持っている」と。(笑)それに乗せられて歌った次第です。(拍手)
代島監督
そんなこと言いましたっけね。でも実際そうですよね。(笑)
佐々木
本当に音程がズレていないところが大したもんだと思った、さすが劇団四季にいた。(笑)
山﨑建夫さん。
山﨑
短くなっても2時間超えるのを聞いて、すごく心配だったんです。
佐々木
貴方の体調が?
山﨑
いや、映画の長さが。それで試写会を先に観た黒瀬さんから「あっという間に過ぎるよ。退屈なんかしている暇ない」と言われた。僕は今日初めて観たんですけれども、退屈する暇ないですね。しっかり観せてもらって。
僕が思ったのは、やっぱり監督という仕事というか小説家もそうなんだろうけども、取材することって、すごい体が動くでしょ。必要なところ全部行って、さっき黒瀬さんも言ったように、上手に話を引き出される。だから本当はあの人に会っていろいろ聴いておきたいんだけどなと思う人、僕が果たせていない人がいましたけどね、たくさん彼が取材されて、本当にこちらが教えてもらうこともたくさんありました。監督や作家だとか大変なんだな、すごい人なんやな、すごい仕事なんだなと思いました。(拍手)
佐々木
ありがとうございます。じゃあ向さん、向さんも歌を歌っていただきました。
向
私は取材、撮影の第1号だったものですから、まだあまりプランが出来ていらっしゃらない頃に、ヒントを与えたり、導きの糸になったりした意識はあるんですけど、大体導きの糸というのは出来上がった時には消えて無くなるものなので、6時間も長々と喋りましたけれども、ほとんど私が出てないと、「向さん悪けどね、あんまり出ていないよ」と言われると思って安心して観ましたらとんでもないことになっていて、ちょっと恥ずかしいです。以上です。
代島監督
もっといいお話いっぱいありましたもんね。大学時代とかね。
向
採用されたのが高校当時の話だけなので、私はまた赤松さんに付いて行かない方でいろいろやって苦労したりしたことはお話しましたけども。また急死した時なんかには特別に何かまとめて下さい。(笑)
代島監督
はい。
佐々木
山本さん。山本さんは昔の東大闘争の頃の映像をわざわざ見せられて、その顔を映されて、大変でしたね。
山本
いやあ、正直言って自分の映っている映画というのを、特に若い時の映像を見せられて、ものすごい恥ずかしかったです。(笑)ものすごい照れ臭いというかあれですけど。
あのね、一番僕の印象は、ここに居る向さんにしろ黒瀬君にしろ、山﨑君もそうだけど、大手前高校というところ、大手前高校というのは、大阪のちょうどお城の前にあるんです。元旧制の女学校です。それを67年に卒業しているんです。僕はその7年前の60年に卒業しているんです。たった7年で高等学校の雰囲気がものすごい変わっている。僕らの時の大手前高校では考えられないですよ。佐々木さんが65年頃は変化の時代だと言ったけど、やっぱり60年代というのはすごい変化の時代なんだなと、それは改めて思いました。
それはあれなんだと思うんだな。60年安保の時に、僕は60年安保の最後の日、6月20日の晩、国会前で徹夜した口だけども、その時に総評の幹部なんかが「10年経ったらまた闘いましょう」みたいなこと言っているわけだ。安保条約というのは10年後に、日米両方から廃棄を通達できると。それを学生は真に受けたんだよ。言っちまえば。それを真に受けたのが三派全学連なんだよ。(笑)だからね、60年安保を超える。60年安保は負けたんだからそれを超えなきゃいけないということが一つあった。もう一つは、これは僕はあまり考えていなかったんだけど、その時に、60年の共産主義者同盟、ブントがやった役割をどの党派がやるかということが、みんな頭の中にあったみたいだと思う。結局、そういうことだったと思うんだよ。僕なんかそんなこと全然考えなかったけれど、ただ70年は何かやらきゃいけないというのはすり込まれとったんだね。考えてみたら10年先の政治課題が決められている時代なんてありゃせんですよ。今の2020年に、2030年に何があるか誰も分からんですよ。来年のことだって分からん。それが10年先の安保闘争をやらなきゃいけない。それは60年安保を超えなきゃいけない、そういうことが始めからあったんだね。それで若い学生はそれを真に受けたんだよ。偉い人たちは知らないよ。俺たち大学に入ったばかりでほとんど何も知らないような(若い学生は)、「ああそうか、10年先にやらなきゃいけないのか」と(思った)。それがずっとあって、僕の高校の頃なんか、例えば政治党派が高校にオルグに来るなんて考えられないですよ。信じられないですよ。そういう変化があの10年間、特に65年からの間にあったんだなと、それは本当につくづく思いました。
それから救援会のことも言いたいんだけど、打ち合わせの時に「午前の部と午後の部があって両方ともトークがあるけど、同じ話をするのか」と聞かれて、それは芸がないから、救援会のことに関しては午後にします。(拍手)
佐々木
どうもありがとうございます。山本さんは山﨑プロジェクトが始まるまでは、こんな話はどこにもされていなかったわけですよ。このプロジェクトが始まってから堰を切ったようにいろんな本を書かれ、そしてこういう場所でいろんな話をして下さるようになりました。
大手前高校という名前が出ましたけれど、この映画にもたくさん出てきて、その同窓生、同期生が登場しているわけですけれども、可哀そうな高校で、我々が暴れすぎたお陰で、翌年から教育委員会からものすごい締め付けが来まして、今の大手前高校は全くかつての雰囲気はありません。単なる進学校・受験校になっているのは、本当に申し訳なく可哀そうに思うんです。去年、実は大手前高校に僕が同窓会の会館に呼ばれて、同窓生への講演会をさせられたんですけど、その時に、僕は専門が詩ですので、中原中也の詩について講演するという名目で行って中也の話を前半しまして、後半は全て山﨑博昭の話に結び付けました。しかし、同窓生の中で、あるいは大手前の若い卒業生もいましたけれども、誰も知らなかった。抹殺です、この50年の間に。それで大手前高校の図書館に10・8山﨑博昭プロジェクト編集の「かつて10・8羽田闘争があった」(寄稿篇・記録資料篇)2冊本を寄附してきましたので、無理やり今の在校生はその背表紙を見るだろうと思います。
時間、まだある?大丈夫?じゃあゆっくり行こうよ。
黒瀬さん、もうちょっと喋ってよ。
(「歌ったらいいじゃない」の声)
代島監督
「北上夜歌」の替歌なんですよね。
黒瀬
(映画の中で)「北上夜歌」の替歌を歌ってましたけれども、あれは2018年の関西の秋の集会の打ち上げの二次会の時に、当プロジェクトの辻恵さんが、普通の集会の時でも出席者全員に意見を言わせたがる人で、集会が長引く傾向にあるんですけれども、二次会でも一人ずつコメントを言えと。二次会ですから飲食しながらですから別に時間が長くなるということはないんですけれども、僕は困りまして、全然理論的じゃないものですから、皆みたいに理路整然としたきちんとした話は出来ないので、歌でも歌おうかと。それでさっきの歌をそのまま歌ったんですね。そうしたらちょうど真向かいが代島監督で、僕が歌い終わったら、立ち上がってビックリして「初めて聞きました!」と驚かれていたんです。当たり前です。僕は初めて歌ったんですから。(笑)
(注:「北上夜歌」の替歌
♪僕は生きるぞ 生きるんだ
君の面影胸に秘め
思い出すのは 思い出すのは
弁天橋の青い空)
代島監督
その時、いい歌だなと思いました。
黒瀬
本当にビックリされていたんで、ちょっと困ったなと思っていたんですけれど、心の中では一人でずっと前から歌っていたんですけど、本当に音にして言葉にして歌ったのはあの時が初めてだったんです。だから泥縄のお陰と言いますか、まあそんなところです。
佐々木
向さん、映画に出てこなかったところで、あれを残しておいて欲しかったというシーンはどんなところですか?
向
私は早稲田大学文学部を69年の10・21が終わった時に、それから休学しまして運動から引いたんですが、それでいわゆる革マル派と思われているんですが、私は組織に入ったことがなくて、同盟員候補生くらいでちょっとヤバイかなと辞めちゃったんですけど、その前に反革マルだとキツイと、親革マルではないけど、間のクッションみたいな運動を作ってくれと、あんたしか出来ないと言われて、「口挟まないで勝手にやらせてくれるんだったらいいですよ」と言って、クラスデモというのをやったんですね。それは私のクラスが呼びかけ人になって、各クラス。各個人で参加する。それで結構当たりまして、最後は日比谷野音で全都クラスデモというのをやったりしたくらいで、それは上からの指示があってやったことじゃなくて、結構やりたい放題というか「黙っていて下さい、話は付いているんだから」という感じでやりたい放題やったんですね。それが楽しかったので、そういうことも生き方としたら内ゲバがひどくなる前で、ちょうどいい頃に引いたと言えばそうなんですけれども、そういう楽しい思い出もあの頃にはあったということが、ちょっと伝えたかったなと思いました。
佐々木
なるほどね。
代島監督
早稲田の文学部の自治会の情宣部長をやってらっしゃったんですよね。
向
一応肩書は新聞部長でした。新聞会にも居たし、学部新聞の新聞部長という肩書はありましたけども。
佐々木
大手前の時も新聞部に居なかった?
向
居ました。ちょかい出しに行っただけですけど。私はだから大手前では社研とそれから弁論部で文化祭とかで一席ぶつ権利があるというので、そちらの方の活動を主にしていました。
代島監督
4時間半ヴァージョンの時は、その早稲田でのエピソードも入っていたんですよ。20分くらい。どうしてかというと、同じ年、1968年4月に向さんと三田誠広さんが文学部に同時に入るんです。それでKクラスとLクラスという隣りのクラスになるんです。
向
一緒に写った入学写真があります。
代島監督
三田さんから見た向さんの運動の感じというのも、結構三田さんが喋ってくれて、当時の69年の早稲田闘争の感じが生き生きと描かれて、あともう一つは、向さんが辞める決断をして、その後、組織がそれをなかなか許してくれなくて、それで京都に1回東京から離れるんですよね。離れてくれと言われて。それが「よど号」のハイジャックが起きた1970年3月31日に東京を出て、その間に「海老原君事件」があって、内ゲバで殺された人がいて、それで向さんが京都から71年に帰ってきた頃には状況が変っていて、それで大学を中退するんですよね。
佐々木
あなた詳しくなったね。(笑)
向
皆さんご存知の事情により登校できなくなったので休学します、という風に休学届を出しましたし、その事態はずっと続いていて、勉学出来ないので退学いたしますと。そういう書面については学校当局も考えて下さい、と書いて出しました。
代島監督
その後、恋愛の話から、結婚というか同居人の話から、その看取りの話まで聴いたんですよ。全部(カメラを)回しています。それで全部書き起こしています。どこを使うか分からないから。
佐々木
あのね、この映画を作るにあたって、編集するにあたって、全部喋っている人の語っている内容を全部文字起こししているんですよ。編集するに際して。それでそれぞれの人間に話を聴いて、別々のシ-ンで別の場所で聴いているんだけど、同じ話が出てきた時に何を語ったか、その語りの内容と全然別のところで別の人に聴いた語りの内容をつなぎ合わせて、それで物語が出来るかどうかという風な、ものすごく克明で丁寧な編集をされております。ただ、語った言葉、文字そのもの、文字起こしだけで繋げていっても映画にはなりませんから、映画の映像のシーンと合わせて、またそこでピックアップするもの、いろんなものをまた選んで編集されている。大変苦労されていると思います。
実は岡龍二というのがダラムサラに居るんですけれども、岡が踊っているシーンは延々と撮っているんですよ。
代島監督
岡さんが、僕が「日本からダラムサラに取材に行きます」と言ったら、3日空けてくれて、全部プログラムを組んでくれていたんです。「全部撮ってくれ」と言われて。単なるインタビューじゃなくて、そこまで準備されていたら(カメラを)回すしかないじゃないですか。
佐々木
岡君は間違って自分の自伝映画を撮り来てくれたと思った。(笑)50年経ってもトンチンカンなことはいっぱい我々は起こしております。
この映画を観て、一番最初の北井一夫さんの(写真の)ベタ焼きのカットがず~と・・。
代島監督
あれは金山敏昭さんです。
佐々木
金山さんか。
代島監督
ベタ焼きは金山さんで、中で使っている1枚物の写真が北井一夫さんです。
佐々木
金山敏昭さんというのは、もう亡くなられました。彼が本当にベタ焼きがずっと続いて行く貴重な写真がたくさんあるんですけれども、あの中に唯一弁天橋の上の山﨑博昭が写っている。3コマだけ写っているんですね。ものすごくボヤけた感じで。我々はそれを非常に貴重なものとして発見するんですけれども、その金山さんは最終的には報道写真家として沖縄で活動され、亡くなられておりました。私たちがあの写真の持ち主を著作権のためにずっと探し続けて、最後にそのことが分かりました。ご遺族から許可を取って記念誌にも載せさせていただきましたし、映画にも使わせていただきました。
代島監督
僕は「まな板の上の監督」なので、批判も含めて何でも言って下されば・・。
佐々木
山﨑さんは、山﨑博昭、弟が生まれてから死ぬまでどこで過ごしたかという場所をずうっと点々と巡られて紹介されましたけれども。
(山﨑さんの発言、マイクなしで聞き取れず)
(「マイク持って」の声)
山﨑
3日間、大阪で泊まって勤務みたいに自宅に通って下さったんです。
代島監督
ラブホテルから。(笑)
山﨑
ラブホテルに(カメラマンと)男2人で泊まって。
代島監督
安宿で。
山﨑
俺ちょっと始めはやっぱりビビリましたよ。3日もおったらもう、大体家に居てると、皆だらしないところ全部出すでしょ。外に出るとちょっと頑張ってやるけどね。生活が染み込んでいるところに来られて3日もインタビューされたら、どうしようもないところがいっぱい出てくると思って、ちょっと辛かったですよ。(笑)ただ、映画には使って欲しくないような場面もあったけど、そこはちゃんと使ってなかった。
代島監督
たぶんつい言っちゃったんですよね。
佐々木
でも建夫さんね、記念誌2冊本を編集している時に、山﨑博昭の残した文章、文献を全部集めて下さったんですけど、あの中に、映画の中に出てくる加盟書とか・・。
山﨑
大事なのは出してなかったな。
佐々木
その時は見つかっていなかたんですよ。記念誌を出してからああいうものが出てきたんですよね。
山﨑
ほんまは前から分かってたんよ。
佐々木
本当!ひどい。(笑)
山﨑
持って行くべきかどうかを、僕は加盟決意書なんかというのは公開するのがいいのか悪いのかとかね・・。
佐々木
ああ、そういうことがあったのか。
山﨑
小さい時の日記なんかは、見ても何の価値もないと言われそうな気もするし、だけど彼が来て3日間通ってくれるから、家にある、こんなものあったよ、こんなものあったよと・・。
佐々木
どんどん出させる、ずるずると。
山﨑
家にそのままあったわけよ。置いてあるわけ。そんなもの記念誌を作る時に必要あるかないかというのは、必要ないやろなと。
黒瀬
僕は山﨑博昭君の小学校の文集で、ローマ字の勉強がはかどっている時にお父さんが帰ってきて、「大家さんのところに家賃を払いに行ってくれ」と言われて、仕方なく行くんですけれども、大家さんに「ちょっと高いところにある電球を替えてくれないか」と言われて、梯子を上って電球を替えてあげたら、アーモンドチョコレートをお礼にも貰ったと。それを持って帰って家族で食べたいうエピソードは本当にジーンと来ましたね。何か貧しさとか貧乏とかいうものが底流に流れている上での昭和の家族の、暖かい、貧しいながらにも結束した、それこそ昭和の家族のいいエピソードだなと思いました。今も年号なんて本当に意味がなくて、今はもう使っていないですけれども、我々は昭和というものにどっぷり浸かっていますから、やっぱり昭和という意味でも、あのエピドードには感動しました。
佐々木
そうですね。僕も何か「三丁目の夕日」みたいな物語だなと思って、(笑)いかにも山﨑らしいなと思って。
お葬式のあった日の写真も出てきましたけれど、近くの会館での。お葬式の列の真ん中あたりに僕がいるんですよ。あれは俺だと僕にしか分からない。あの頃は本当に会館の周り、それから住んでおられた家の前なんかでは、本当に実りの秋の稲穂がずらっとまっ黄色で、それが全部垂れているんですね。それが目の底に焼き付くような感じで、今でもありありと覚えています。それからお葬式の場所に参列したことが、この映画を観たら蘇ってきました。
ただ、僕にしてもそうです、黒瀬も向さんもそうでしょうけれども、大手前高校の同期生、同窓生というのは、50何年経っても10・8のこと、それから高校時代のことというのは、山﨑の名前と共に、本当に近い過去として身体に焼き付き、焼き付かれてこれまで過ごしてきたように思います。皆の話を聴いていて、皆そうだったんだと。その角度はちょっとずつ違うけれども、でも身体が焼き焦がされるようにして、53年前のあの日を通過して行ったんだと。それ以降、いろんなことがあったにしても、言葉にしない時期が、出来ない時期が何十年も続く人たちが、この映画中でもそして記念誌の中でも50年を越えて語り始めるということをやっているわけです。お前たちは何をしているのか、という風に問う人もいると思います。でも、はっきり言います。「言葉を残したいんだ」と。死者を追悼し続けることによって言葉を残す。我々が生きる、生き続けていくということの言葉を残したい。
この映画の中で、僕はやっぱり冒頭に代島さんが、僕らの世代より下ですけれども、世代が下の人間としてこの映画を作るというスタンスを、自らが雨の弁天橋の上に立って、橋の真ん中で山﨑博昭の写真をずっと掲げながら立っている、そして最後の締め括りもそのシーンで終わり、そして最後に山﨑博昭の雨に濡れた顔が映る。この映画のスタンスというものは、はっきりしていると思います。喋られた内容、そして聞かれた中で、俺は違う、あそこのところ違うじゃないか、いろんな思いを持たれたと思う。でもね、それは全員が持っていいと思うし、この50数年というのは、その50数年だったと思います。あの時代を生きた人間にとっては。初めて観る人にとっては、これはいったいどう観るでしょうか。そのことが、とっても聴きたい。
本当は今日の皆さんとの、この中でいろんな質疑応答があったりしたら、僕はそのことを一番聴きたいですけれども、残念です。アンケートに絶対書いてね。我々と同世代の言葉も欲しいけれど、もっと若い人たちの言葉も欲しい。
ここから始まるんだよというその思いでいます。
出口にカンパ箱を持った人間が立っております。その中にカンパを入れると同時にアンケートを提出していただければということです。カンパしないとアンケートは入れられない(笑)、そんなことはないです。
どうも皆さん、長い間ありがとうございました。(拍手)
代島監督
この映画はたぶん来年の2021年の4月、ゴールデンウイークくらいから、ここの1階上のユーロスペースで公開し、その後全国の映画館で公開していく予定ですので、またその時はご支援お願いします。
今日はありがとうございました。(拍手)
佐々木
どうぞ映画の宣伝もよろしくお願いします。
●代島監督のフェイスブックより
10/4(日)に渋谷・ユーロライブで開催した「10・8山﨑博昭プロジェクト2020秋の東京集会」の映像報告(ダイジェスト版4分)をYouTubeにアップしました。
長編ドキュメンタリー映画「きみが死んだあとで」とはどんな作品なのか?ちょっとだけわかってもらえるかもしれないのでぜひご覧ください。
合わせて、当日集まったアンケートから「きみが死んだあとで」感想を抜粋しました。(ちょっと長くなりますが)以下にご紹介しますので、ぜひ読んでみてください。
「きみが死んだあとで」は2021年4月下旬GWに渋谷・ユーロスペースで封切!その後、全国でミニシアターを中心に公開していく予定です。
◎2020秋の東京集会「きみが死んだあとで」感想抜粋
正直なところ、多くの犠牲者があった当時の運動のなかで、なぜ10・8の山﨑さんの事件が重要で、クローズアップされるのか理解できてはいませんでした。しかし、映画を通じて事件がひとつの権力の弾圧による悲劇ということを超えた、学生運動というものの歴史的な意義を表す鏡でもあると感じました。また「学生運動とは何だったのか」と漠然と感じている多くの若者に当時のリアルな当事者の姿を伝えることができる、すばらしい映画だと思いました。来年の全国公開が楽しみです。
(K.M 男性 上智大学生)
私は1969年に大手前高校に入学したが、この時に映画(前半)で描かれた事実(山﨑さんたちが行ったこと)を知っていればと痛切に感じた。
(T.T 男性 大手前高校同窓生)
生きる上で、いままでの原点(50年前)の意味をみなさま(登場人物)がよく考えておられ、教えられました。心優しいみなさまに感動しました。
(M.M 男性)
私は現在大学2年生ですが、当時同じ年齢くらいの学生らが各々の志のために闘う姿に感銘を受けました。
(S.M 女性 聖心女子大学生)
とても感動的な映画でした。2回泣きました。トークの会も素晴らしかったです。
(T.I 男性 元革共同全国委員会同盟軍)
よかったです。山本義隆さんの話(内ゲバに関しての話)、佐々木幹郎さんの話(天草の漁師の話)、山﨑建夫さんの話(博昭さんの子どもの頃の話)、水戸喜世子さんの話(救援センターの話)などが印象に残っています。
(N.H 男性)
セクト、それも関西地区の高校からの活動、同世代であっても知らなかった「物語」であったが、理解できた。個人的には東大核研で学生(大学院生)として世話になった水戸巌さんのカラー写真が多数紹介されていて感激した。
(M.K 男性)
感銘を受けました。当事者たちの肉声を聴くことによって、いままでベールに包まれていたことが立ち現れました。ありがとうございました。
(M.A 女性)
とてもわかりやすく編集されていた。
(K.T 女性)
目から「ウロコ」。高校社研などから大学入学→中核派へ。青年のほんとうの純粋な考えが伝わってきた。セクトの気色に染まらず「純」に生きた高校の同級生を知って感動。
(S.H 男性)
大変感動いたしました。山﨑博昭さんが提示した問題群はいまもあるものだと思いました。
(H.F 男性)
映画の中で語られた内容についてどうとらえるか、これからじっくり考えてみたい。出演者すべての方の人生を映した発言の重さをしっかりと受け止めたいと思っています。
(K.M 女性)
(終)
【お知らせ その1】




『「全共闘」未完の総括ー450人のアンケートを読む』12月刊行!
全共闘運動から半世紀の節目の昨年末、往時の運動体験者450人超のアンケートを掲載した『続全共闘白書』を刊行したところ、数多くのメディアで紹介されて増刷にもなり、所期の目的である「全共闘世代の社会的遺言」を残すことができました。
しかし、それだけは全共闘運動経験者による一方的な発言・発信でしかありません。次世代との対話・交歓があってこそ、本書の社会的役割が果たせるものと考えております。
そこで、本書に対して、世代を超えた様々な分野の方からご意見やコメントをいただいて『「全共闘」未完の総括ー450人のアンケートを読む』を刊行することになりました。
「続・全共闘白書」とともに、是非お読みください。
執筆者
<上・同世代>山本義隆、秋田明大、菅直人、落合恵子、平野悠、木村三浩、重信房子、小西隆裕、三好春樹、住沢博紀、筆坂秀世
<下世代>大谷行雄、白井聡、有田芳生、香山リカ、田原牧、佐藤優、雨宮処凛、外山恒一、小林哲夫、平松けんじ、田中駿介
<研究者>小杉亮子、松井隆志、チェルシー、劉燕子、那波泰輔、近藤伸郎
<書評>高成田亨、三上治
<集計データ>前田和男
定価1,980円(税込み)
情況出版刊
予約受付中(チラシ参照)
(問い合わせ先)
『続・全共闘白書』編纂実行委員会(担当・前田和男)
〒113-0033 東京都文京区本郷3-24-17 ネクストビル402号
TEL03-5689-8182 FAX03-5689-8192
メールアドレス zenkyoutou@gmail.com
【1968-69全国学園闘争アーカイブス】
「続・全共闘白書」のサイトに、表題のページを開設しました。
このページでは、当時の全国学園闘争に関するブログ記事を掲載しています。
大学だけでなく高校闘争の記事もありますのでご覧ください。
【学園闘争 記録されるべき記憶/知られざる記録】
続・全共闘白書」のサイトに、表題のページを開設しました。
このペ-ジでは、「続・全共闘白書」のアンケートに協力いただいた方などから寄せられた投稿や資料を掲載しています。
知られざる闘争の記録です。
【お知らせ その2】
「語り継ぐ1969」
糟谷孝幸追悼50年ーその生と死
1968糟谷孝幸50周年プロジェクト編
2,000円+税
11月13日刊行 社会評論社

本書は序章から第8章までにわかれ、それぞれ特徴ある章立てとなっています。
「はしがき」には、「1969年11月13日、佐藤首相の訪米を阻止しようとする激しいたたかいの渦中で、一人の若者が機動隊の暴行によって命を奪われた。
糟谷孝幸、21歳、岡山大学の学生であった。
ごく普通の学生であった彼は全共闘運動に加わった後、11月13日の大阪での実力闘争への参加を前にして『犠牲になれというのか。犠牲ではないのだ。それが僕が人間として生きることが可能な唯一の道なのだ』(日記)と自問自答し、逮捕を覚悟して決断し、行動に身を投じた。
糟谷君のたたかいと生き方を忘却することなく人びとの記憶にとどめると同時に、この時代になぜ大勢の人びとが抵抗の行動に立ち上がったのかを次の世代に語り継ぎたい。
社会の不条理と権力の横暴に対する抵抗は決してなくならず、必ず蘇る一本書は、こうした願いを共有して70余名もの人間が自らの経験を踏まえ深い思いを込めて、コロナ禍と向きあう日々のなかで、執筆した共同の作品である。」と記してあります。
ごく普通の学生であった糟谷君が時代の大きな波に背中を押されながら、1969年秋の闘いへの参加を前にして自問自答を繰り返し、逮捕を覚悟して決断し、行動に身を投じたその姿は、あの時代の若者の生き方の象徴だったとも言えます。
本書が、私たちが何者であり、何をなそうとしてきたか、次世代へ語り継ぐ一助になっていれば、幸いです。
【お申し込み・お問い合わせ先】
1969糟谷孝幸50周年プロジェクト事務局
〒700-0971 岡山市北区野田5-8-11 ほっと企画気付
電話086-242-5220(090-9410-6488 山田雅美)FAX 086-244-7724
E-mail:m-yamada@po1.oninet.ne.jp
【お知らせ その3】
ブログは隔週で更新しています。
次回は11月27日(金)に更新予定です。
コメント