今回のブログは、元青山学院大学全共闘の黒瀬丈人氏からの寄稿第4回目である。
生い立ちから高校時代、大学時代、そして現在に至るまで、それぞれの時代の流れの中でどう社会と向き合って生きてきたのか、ということが書かれている。
全体で9万5千字に及ぶ労作なので、何回かに分けて掲載していきたい。
第4回目は本章の青山学院大学時代(1969年の闘い)である。
【青学全共闘への軌跡】
ひとには、魂の時間、というものがある。50年、100年を経ても、それは鮮烈なマグマとして魂に深く痛いほどに閃光として刻まれている
黒瀬丈人
元青山学院大学全学共闘会議・法学部闘争委員長 全共闘行動隊
<目次>
1 前書き 「青春の墓標」そして-香港の若き魂たちよ!―自由・自発・自主の尊厳
2 序章 第一節~第三節(1949年―1967年)
「団塊の世代」時代の情景からベトナム反戦闘争に至る過程とは?
1960年安保闘争の記憶/樺さんの死~反戦高協/10.8羽田闘争
3 本章 第一節~第三節(1968年―1970年)
烽火の記憶~青山学院全学闘から全共闘と70年安保・ベトナム反戦闘争
4 終章 1971年以降 青学全共闘/中核派からアナキズムへ 早稲田―1972年虐殺糾弾・
アンダーグラウンド演劇
5 あとがき 鎮魂、そして闘いは終わっていない
3 本章 □1968年 青山学院全学共闘会議(青学全共闘・前身~全学闘)の闘い
第二節 《1969年》
●青学全共闘―流山児祥副議長を先頭に、唐十郎「腰巻お仙」新宿ゲリラ公演防衛隊
1969年1月3日
年を越した1969年1月3日、新宿西口公園で、当時、花園神社を追い出された状況劇場の唐十郎、李礼仙、麿赤児たちは、『腰巻お仙』上演を強行し、公園法違反事案として、都職員と機動隊200名が彼らを包囲、弾圧介入を行った。詰めかけた観客も多数いた。青学全学闘の流山児祥副議長と劇研を中心とする全学闘メンバーは、新宿西口に駆けつけ、彼らの演劇活動を防衛したのである。流山児祥は、もと状況劇場の団員として所属していたことがあり、彼に状況劇場が危ない、という連絡が入ったそうである。結果、唐十郎たち3人が公演後、公園法違反で逮捕されたのだが、おそらく、全共闘運動でこれほど直接的に演劇現場に関わった大学全共闘は青学だけではないかと思う。私は残念ながら、「助っ人」部隊には入っていなかった。バリケード封鎖破壊、を心配していた。下記に、その当時の状況を記した『大久保風土記』ブログがあるので、引用させていただいた。扇田昭彦氏の批評と、横尾忠則氏のインタビューで語られていることそのものが、全共闘運動の底流と、つまり水脈、水源が同じなのではないか、と私は感じた。
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《以下、引用》①″唐十郎と状況劇場は、この伝説的な戸山ハイツ公演の後、新宿の花園神社にテントを張り、いわゆ「紅テントで」での公演が始まる。いわば、蟹川をさかのぼって、歌舞伎町にたどり着いたのである。実際、花園神社は、蟹川からほど近い場所にあって、内藤新宿の総鎮守であり、歌舞伎町もその昔は、蟹川の源流を中心に抱く巨大な沼地であった。
状況劇場と水との親和性は、これだけにとどまらない。
「腰巻お仙」の3年後の1969年に、状況劇場は「新宿中央公園事件」を起こしている。
唐十郎と状況劇場は、そのアナーキーな活動のため、拠点である新宿で広がっていた、官民一体の「浄化運動」の対象となり、花園神社を追放されてしまう。その逆襲として、唐十郎は、当時完成したばかりの新宿中央公園に赤テントを張り、ゲリラ公演を決行するのである。機動隊200人が出動し、テントを包囲されるという緊迫した騒乱状態の中で芝居は続けられたが、終演後、唐たちは都市公園法違反で逮捕されたのである。
「赤テントにつめかける観客の側にも反権力的なエネルギーへの熱い共感があり、舞台と客席はいわば親密に共振する関係にあった。」(「日本の現代演劇」岩波新書 1995)と、扇田昭彦は書いている。
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②横尾忠則は、「失われた新宿」というインタビューの中でこんなことを言っている。
「客が車座になって酒を飲んでいると、芝居をやっている役者はこっちを向いて怒っているわけです。『お前ら何しにきているんだ!』と。でも、全員無視して芝居を観ている人は一人もいない。本当に演劇が好きというより、そういう場が好きだったんだね。そういう場から演劇ではない演劇が、ゴーレムが立ち上がってくるように、ガーッと何かが立ち上がってくる。そういう演劇性というのか、現実が演劇に、演劇が現実に変わっていくダイナミックな空間が好きだった。『腰巻お仙』は、途中で警察が来て大騒動になったから、あれを観た人は正確には一人もいませんね。テント芝居にも行ったけれど、知り合いがいたらずっと話していて、舞台なんか観ていない。」
(「あゝ新宿 スペクタクルとしての都市」早稲田大学坪内博士記念演劇博物館 2016)
横尾の指摘は、唐十郎の狙いを見事に捉えている。
ここでの芝居は、純粋な観劇、つまりは、台詞ひとつひとつや、役者の一挙手一投足を見守ることではなく、それらを含めた、この特別な空間に身を置くこと、巻き込まれていくこと、ひいては自ら参加すること、が目的であるということだ。そして、その磁場を作り上げたのが、他ならぬ、戸山ハイツであり、箱根山を中心とした異空間であった。″
《大久保風土記ブログより引用―註:ゴシック部分は本稿筆者による》
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奔流するエネルギー、運動性、異空間と異時間、ダイナミズム~それは、全共闘運動そのものが持つ本質性である。
ひとりひとりの学生、人間がその千差万別な個的状況から、それらに飛び込んでいったのである。私はそう思う。
「この特別な空間に身を置くこと、巻き込まれていくこと、ひいては自ら参加すること、が目的であるということだ」「・・現実が演劇に、演劇が現実に変わっていくというダイナミックな空間」、そして、そこに共感する仲間たちがいる、ということ、激しく敵対する勢力がいるということ、生か死かの瀬戸際で自ら道を選び、選んだら迷いながらも突き進む、それがわたしの実存だった。
アングラ演劇~状況劇場(唐十郎氏)、天井桟敷(寺山修司氏)、黒テント(佐藤信氏)、早稲田小劇場(鈴木忠志氏)を頂点とする演劇エネルギー、映画(新宿ATG、若松孝二、ほか)、テレビドラマ、写真、イラスト、舞踏(土方巽など)、劇画・漫画、文学・詩、あらゆるジャンルの音楽、生活風俗~今ここで論ずるには膨大すぎる奔流のエネルギーが、全共闘運動と全く無縁の世界の出来事ではないということは、確かなのだと思う。当然、それらを指弾し、破壊し、抑圧しようとする国家権力、体制擁護右翼、突っ込めば日共、既成の左翼、評論家、知識人層、なども存在していた。私は、ロシア革命1917年~20年のわずか3年間に怒涛のように開花したロシアアバンギャルド芸術を想起した。彼らは、そのほとんどが20代であった。
●1969年1月バリケード封鎖解除―「六項目要求」桜井学長代行が容認―安田決戦へ
1月18日東大闘争/安田講堂を中心とする攻防戦の前後、全学集会において、学長を退いた大木に代わった桜井学長代行を前面に、全学闘の「六項目要求」が受け入れられた。(後に、大木はこれを認めず、反故にするー日大と同様)全学闘は8号館バリケード封鎖を解いた。その後、学生会館を拠点に活動を続けた。全学闘として組織的に行動したのではないが、東大安田講堂を中心とする攻防戦に、私は、お茶の水へ行き、日大芸術学部闘争委員会が構築した、これもいわゆる「神田解放区」での闘いに参加した。東大へ続く道路は、機動隊が逆に石積みのバリケードを作り、全共闘部隊と党派の混成部隊で、東大へ向かって進み、あと300m、夢中で投石を行った。未明の空が明けてゆく神田で私は、安田決戦の仲間たちを思った。その後の、機動隊の暴虐テロ、リンチは言語を絶する。佐藤の尖兵として暴虐の限りを尽くしたのである。佐々敦行氏(当時の警備責任者)が後年、機動隊の負傷の多さを佐藤に訴えて、予算を大幅増額してもらった、東大の無給医局員に同情した、学生が安田講堂から落ちないか、死なないかと心配した、と述べている。しかし、催涙ガス入り放水、ガス銃水平撃ち、大盾で滅多打ち、殴打足蹴り、テロ・リンチ行為は永遠に消えるものではない。これはむき出しの殺人行為であることを忘れてはならない。日共民青と加藤学長代行も許してはならないと。
●右翼学生のテロ 1969年封鎖解除前後―右翼学生連合のバリ破壊襲撃未遂
1月「6項目要求」が全学集会(団交)で桜井学長代行により、承認された。のちに右翼「民主化連合」は、「七項目要求」を出し、全学闘の要求に対抗してきた。この全学集会(体育館講堂)の途中だったと記憶するが、右翼学生連合約100名が、8号館バリケードに向かって、全員白い軍手をはめ、集団攻撃をかけてきた。われわれもそれを阻止すべく約100名で追いかけ、双方にらみ合いになった。その時、青学教授会の先生たちが、右翼学生の方に向かってスクラムを組み、衝突を回避しようとした。右翼学生連合は、8号館前広場から銀杏並木の正門方向へじりじりと詰め寄ってくる。私は、屈強な右翼と殴り合いになることを覚悟し、全員が緊張状態にあった。新聞会のKが、大型マイクで、「これ以上近寄れば、ゲバルトを行使する!!」と大声で威嚇。結局、教授会の先生たちは一歩もひかず、白兵戦にはならなかった。8号館に向かっていた右翼学生連合一部部隊は、8号館守備隊が浴びせる放水、投石でひるんだ。8号館バリケードまで、20mまでしか近寄れなかった。私は、後日、いずれこの右翼連合と暴力的に激突せざるを得ないな、と覚悟を決めた。
封鎖解除後、学生会館を拠点に活動を続け、ある日、文学部闘争委員長のY君と深夜、食料の買い出しに出た。青山通りを左に入ったところに屋台のおでん屋があり、Y君ととにかく腹が減っていたので、注文していた。ところが、その場に学生服を着た右翼8人が寄ってきて、私とY君を襲撃してきたのである。私は、右顔面を強打され、ほんとにあの時、火花が出た。顔が倍に膨れ上がった。うつぶせに防御しているところを、足蹴りを何回も受けた。Y君も滅茶苦茶に殴打されていた。その時、おでん屋の親父が呼んできたのだろう、警官が来て、割って入り、右翼学生は姿をくらましてしまった。私とY君は、警官に被害届を出すなんてことはもともと考えにない。腫れあがっている顔を抑えながら、学生会館の仲間たちに告げ、50人ほどがヘルと角材でその周辺をドタドタと深夜、右翼学生たちを探索した。しかし、どこかに隠れたらしく、発見できなかった。救援対策部の女子に手当してもらったとき、鏡を見て、自分でびっくりした。顔が自分ではなかった。あの手刀と蹴りはおそらく、拳法部か空手部だと推測できた。学生会の一般学生ではないし、深夜だいたい青学周辺をうろついてはいない。その後、私は、防御のため、小刀をポケットに仕込むことにした。
その以前、社研の部室の謄写版一式とビラ、椅子、机が破壊されていたことがある。破壊された直後だったので、発見した私は、すぐ階下まで追いかけると、右翼学生(おそらく3~4年生)-短髪の空手をやっているようながっしりした背の低い男―が逃げるところだった。「おい!待て!」と叫ぶと、こちらに向かってきそうだったが、こちらも身構えるとまた踵を返して逃げ去った。こういう小さな妨害行為はよく見られた。
体育館で右翼学生(「民主化連合」)が集会を開いたとき、早稲田の齋藤(日学同委員長)が来ていて、文学部闘争委員長のY君を見て、追いかけ始めたので、青山真理会メンバーの角刈りの右翼学生に、「あいつはなんだ?」と聞いたが、「わからない」との答えだった。いずれにしろ、日学同外人部隊が学内集会に入り込んでいることは明白だった。あとで、Y君に聞くと、何か因縁があったとのことである。
クラス学友のK君(ブント)も、前年、右翼学生に頭を殴られ、頭にグルグル巻きの包帯をすることになった事件があった。彼も、その後、鉄パイプを三分の一に切って、紐を括りつけた自家製鉄パイプを所持していた。ジャンパーのなかに肩からつるせるようにしたもので、それを真っ赤に塗っていた。その後、その右翼学生が彼女らしき女子と「シャンソン・ド・パリ」(渋谷・喫茶店。通称シャンパリ)でコーヒーデートしているところを見つけ、声をかけたところ、その学生はうつむいて何もできなかったそうである。K君も敢えて復讐の反撃はしなかったそうである。優しい男だった。
当時、喫茶店「シャンソン・ド・パリ」は、われわれ全学闘(のち全共闘)メンバーもたむろしていたが、一般学生も、民青も、右翼学生も来ていた。不思議な喫茶店だった。壁には落書きがいっぱい書かれていて、それでも店主は文句も何も言わなかった。時読、詩の朗読会もあった。現在は、カラオケになっている。こういう喫茶店がいまはほとんどなくなってしまった。シャンソンライブ喫茶というのは、銀座、新宿や自由が丘にはわずかに残る。文化遺産として残したいものである。

(写真:今はなき通称「シャンパリ」喫茶店マッチー筆者撮影)
●1969年2月 右翼妨害活動活発化―緊張関係、中核派同盟員へ、フラクション参加(慶大)
6項目要求が通り、8号館バリケード封鎖を解除したのち、入学試験・卒業式などの時期に入った。その頃から、学内右翼(全国学協・生長の家学連・日学同・体育会系右翼学生、勝共連合を主体とする)の妨害行為、彼ら自身が突き付けた学内民主化などの「七項目要求」(大学側への要求)が、顕在化してきた。彼らも学内で集会を持つ。具体的な組織として記憶しているのは、①青山を良くする会②青山真理会③学生懇談会であり、それらがやがて、「青学民主化連合」という組織糾合となる。その実態は、上記右翼組織のメンバーである。
これら妨害活動に対し、2月~3月の一般学生が不在のなかでも、一触即発の場面も現出した。大学側は、大木が前面から隠れ、桜井学長代行から、村上学長体制へと移るなかで、学部長会と村上学長も、全共闘の6項目要求対応と、右翼の七項目要求の板挟みになる。大木は、背後から、右翼妨害活動をバックアップし、この1969年秋には、自治会設立準備委員会の予算凍結、という措置を行う。その間、機動隊導入の常態化、ロックアウト体制、右翼のバリケード襲撃など、強権支配をあきらめず、むしろ、頑固に推進しようとした。
青学の学協・生学連メンバーは中心人物が2名で、内1名は女子だった。長崎大学/椛島のような組織力はほとんどなく、ビラマキ程度の活動で、独自集会も開催していなかったが、民主化連合の一翼であった。それに早大/斉藤を中心とする日学同と、右翼体育会系学生が加わり、こちらのほうが、暴力的で、「過激」だった。ちなみに、青学では民青はどこにいるのか、というほど活動をしていない。(キャップはY)
勝共連合は、笹川良一と兒玉誉士夫、文鮮明・統一協会が、中心となって1969年に発足した反共組織だが、宣伝カーが来ることもなく、学内集会・ビラまきなどもなかった。おそらく背後で進出機会を狙い、暗躍していた。
1969年バリ正門への火炎瓶攻撃などはおそらくここの実行部隊か、大木と関連する○○建設系暴力団の仕業かと推察する。上記推測の根拠は、1970年以降、大木はこれら統一協会系(原理運動)の学生を大量に入学させ、青学を文鮮明大学(反共の砦)にしようと画策してきた。このような腐敗を世の人びとは知らず、憧れの青山通りと渋谷に近いお嬢様お坊ちゃん大学、と思っている。
近年他界した佐々淳行氏(当時警視庁警備部幹部)回想で、日大使途不明金(20億円―今で換算すると200億円位)による日大闘争過程で、教授の部屋の袖机から1億円が捜索で発見され、すわ不明金の一部か?と思ったところ、当該教授申告により、入学等に関わる私的な「裏金」だったことが判明した、とある。ひとりの日大教授でさえ、1億円の裏金を隠していたのだから、推測だが、青山学院院長であれば、何十倍もの縁故と依頼による裏金が大木のもとに入っていたことは想像に難くない。院長の「ひと声」は絶対だからである。独裁とはそういうものに他ならない。(註:○○建設―大学・短大・高等部などの設備改装・メンテナンス・新規建設など、多数受注していた会社。多額のリベートが大木に入っていたと推測できる。また縁故入学は当たり前であり、推薦という名で多くの体育会系右翼学生が、入学=子飼い、していたと思われる。その謝礼金なども併せて大木のもとに集約されていただろうー但し、証拠は把握できなかったので推測とする)
私は、2月になって、法大チューターの推薦で、池袋「前進社」に出向き、「革命を成し遂げる」決意書に署名し、マルクス主義学生同盟(中核派)同盟員となった。最初は、慶応大学でのフラクションに参加、青学の右翼妨害活動とそれに対して闘うこと、6項目要求貫徹すること、などを報告。さらに、千駄ヶ谷で行われた同盟集会の防衛隊として、動員された。「前進社」防衛の泊まり込みも行った。岡山大学や広島大学、そのほかいろいろな先輩たちと知己を得た。当時は、70年代における対革マル派戦争は、まだなかった。いわゆる党派間抗争はあったが、殺戮戦ではなかった。主に公安に対して、監視を行うのが主任務だった。1968年春~夏、青学ブントで闘ったが、ブント同盟員としてではなく、今まで反戦高協で組織戦としてよりも、個人として三派全学連の大学生、労働者、農民、市民とともに参加していたから、三派のブントでも違和感はなかった。ただ、革共同全国委員会のひとたちの熱い人間性を体感していたので、闘争するならば、中核派が自身に最適だと直観したからである。
この頃、法大チューターから、日学同などの右翼系学生と中核派学生のテレビ討論会企画があり、出ないか?という話があったが、そんな余裕はなかったので、断ったことがある。
30年前だろうか、テレビで秦野章(元警視総監?昭和元禄猿芝居″と世相を揶揄で有名)、松崎明(革マル派副議長―元JR東日本労組会長)、小沢一郎(現・立憲民主党)が鼎談する番組を見たことがある。メンバーがメンバーである、何だ?これは?と思って記憶に残っている。国労動労の背骨を叩き負った中曽根へのオマージュだろうか、おぞましい感覚を持った。2002年、その後、小泉と竹中が、全逓労働組合の背骨を叩き負った。大量の派遣労働者を作り、日本を未曾有の階級差別社会に変質させた。この頃から、パラサイト、親子殺し、少子化、DVなど社会と人間を崩壊させる事態が本格化したのである。大学は骨抜きにされ、細分化され、かつての「全学連」はもう存在できなくなった。戦後政治の総決算、とは、内実は闘う労働組合、闘う学生組織、闘う農民・市民の依拠する社会的成り立ちそのものを破壊させていったのである。大学立法など不要な大学ばかりになった。かつて20万人と豪語した民青組織も、東京・港地区民青動員でも20名そこそこである、と筆坂氏(元日本共産党NO.4)も述べている。
しかし、生学連・学協の発展的組織=日本会議、統一協会が、日本の政治中枢にまで食い込み、社会を腐敗させ、国民を貧困に陥れている。それが現下の日本政治である。だから、この時の闘いが、より点検・総括されるべきだと思う。それが責務である。コロナ対策の無策を見ても国民殺しの政府テロと言わざるを得ない。消費税は下げない。財務省には250兆円の財政投融資資金がうなっている、とされる。
青学全学闘は、1969年4月から青山学院全学共闘会議へ組織を改編、各学部へのオルグ活動を公然化した。2代目議長は青学ブントのK君となった。それまで全学闘は、個別闘争委員の集合体で、文連各部・同好会、一部体育会、新聞会、一部学生会、また主体的な個人としての参加に依拠していた。その中核となっていたのが、青学ブントであった。その構造は、変わらなかったと思う。自身の思いでは、各学部に組織重点を全面的に移すことはできなかった、結果として、であるが、むしろ、この頃から本格的に党派に集約されていったのではないか。ブント以外には、青学では、ML派、社青同解放派、革マル派、フロント、中核派、が公然化してきていた。もちろん、闘争の中心メンバーとして、であり、それに対して、右翼も結束を強めていた。
駒沢大学で、中核派の同志から支援要請があったのもこの頃。駒沢大学の社青同解放派と問題が起き、支援要請があった。青学では、私、S君(後のリーダー)、K君、T君、W君の5人で駒沢へ深夜向かった。同志が立てこもる校舎に入ると、ブント赤ヘル2名(内1名はブルブル震えていた)と5名ほどがいた。屋上に上がって見張りをしていると、大きな懐中電灯を持った2名の右翼学生が様子を見に来た。私は威嚇のため、ビンを投げつけた。彼らはその場を去った。右翼学生が相手ではなかったのだが。同志から聞いたのだが、社青同解放派の方では、「青学から20名応援部隊が入った!」との情報。こちら5名なのに、なぜ20名なのかはわからないが、情報というのは不確かなものである。現認、が大切なのだ。明け方になって、撤収した。私自身、社青同解放派にはシンパシーを持っていたので、あまりゲバルト戦はしたくなかったが、来るならやろう、と思っていた。民青、革マル派とのゲバルト戦は慣れていたから。
また、反戦高協の後輩(都立大付属高校)が青学に来て、ヘルメットを借りに来たことがある。高校卒業式闘争(いわゆる「卒闘」)遂行のためである。「毎日ニュース」映画で、雪の中、都立大学の学内をデモ行進する白ヘル高校生部隊を見て、おォ!と心の中で叫んだ。われわれのときは、自主卒業式と称して、全都全国から清水谷公園集会とデモを行ったが、1年後には各地高校において卒闘が勃発していた。1969年秋には、全国高校全共闘が集結するほどになっていた。
●明治学院全共闘・連帯の闘争1968年~1969年―武藤院長暴力支配(大木の盟友)との闘いー
明治学院大学は、五反田駅前の坂道を登っていく白金・高輪付近にあり、所轄は高輪警察署だった。青学に近い大学は、むしろ国学院大学(革マル派が主流、学内右翼も強力)、実践女子大学(青山高等部に近い)などだったが、同じミッション系として、上智ほど距離的に遠くなく、長老派基督教で、戦前は青学商業学部を吸収したという歴史もある。ヘボン神父の「ヘボン塾」が発祥。シンパシーが青学全共闘にはあった。
武藤院長という、大木院長の子分といっても言い過ぎではない、権力者の大学支配が蔓延していた。構造は、やはり日大古田体制・青学大木体制と同じである。応援団を中心に体育会系右翼学生が、一切の政治活動や表現を抑圧、学内規則で禁止していた。明治学院大学全共闘は、1968年10月大学校舎占拠行動を行い、1969年2月に解除する。その後、同年6月約300名の全共闘部隊が、ヘボン館(同大で最も中枢となる棟)など全学バリケードを構築する。勇気ある教授に天沢退二郎氏がいた。彼のアジ演説を何度も体験した。素晴らしい詩人でもある。2月の段階で、青学の学生会館を拠点に活動を継続していた青学全共闘に、明治学院の全共闘部隊の何人もが合流していた。青学右翼と2月に一触即発のゲバルト戦になりそうなとき、明学部隊も少数だったが、いっしょに角材や丸太を持って、準備行動を取ってくれた。同じように上智や立教の部隊ともやりたかったが、毎日の激務と緊張のなか、そこまでの余裕は実際上なかったのが、今でも残念な思いがする。中核派フラクションでも、上智の同志がいたが、運動の高まりをどうしたら獲得できるか、真剣に悩んでいた。同様の悩みは、二松学舎大学の同志も持っていた。
1968年、明学全共闘がバリケード封鎖を行ったとき、青学全共闘の流山児祥副議長をリーダーに、支援行動を行った。中枢棟ヘボン館の強力なバリ封だった。中に入ってみると、一階部分が迷路になっており、ヘボン館最上階に行くまで、機動隊・公安も相当苦労するだろう、と実感した。青学の8号館バリケード封鎖より、強固だった。日大の学友が指導したわけではなかったが、素晴らしいものだと素直に思った。
ある日、応援団の学ラン姿と体育会系右翼学生が、8人ほどバリケード前広場に現れた。明学大の学友とともに、青学部隊も角材を林立させて、座り込み、立ち上がっていた流山児祥副議長がひとり、勇敢にも8人相手に応援団の恫喝に屈せず、激しく論争し、脅しに屈せず、結局彼らは諦めて三々五々去って行ったことがある。そのあと、流山児祥副議長に聞いたら、「(相手をするのが)なんで俺ひとりだよ」とぼやいていたのには、素直に申し訳ない、と思った。角材旗竿で彼らを躊躇することなく、殴りつけ、放逐すべきだったな、と今でも悔やんでいる。しかし、応援団・体育会系右翼も、後ろに角材と旗竿の80名ほどの部隊がいたら、ちょっとは手が出なかったろうとは思う。
明学大に泊まり込みもした。ある深夜、大学周辺を6~7人でヘル・覆面と角材・鉄パイプを持って、パトロールしていたところ、不審な乗用車が1台、道路脇に止まっていたので、バラバラっと駆け寄って、車を取り囲み、車内を見ると4人の公安刑事らしき者たちが不安そうな目でこちらを見ていた。恫喝して、彼らを引きずり出し、車の確認と、彼らの身分証から高輪警察署公安と判明した。その間、彼らは何も抵抗するそぶりもなく、言われるままに突っ立っていた。身分証などを取り上げ、「見張りをやめて早く帰れ!」と、30分ほどで彼らを解放したことがある。こうしたことは、青学でも夜間パトロールのとき、大学周辺を1~2名で公安が歩き回っていることがあり、大声で「おい!お前!」と威嚇すると、あたふたと逃げたことが何回もあった。10.21新宿闘争のときも、鉄パイプを振り上げて向かって行ったら、もんどりうって公安刑事は逃げた。彼らも人間であり、家族もいる、「暴力学生」に滅多打ちされてはかなわない、という気持ちもあったのだろう。われわれは、その時は、「優しい一般学生」だった。のちに、明学大に高輪警察署公安と機動隊が復讐のため、夜間急襲し、バリ徹底抗戦する間もなく、一列に並ばされ、顔見分を公安刑事が目をぎらつかせて、必死にしていた。私は、ヘルを10個ほど入れた大きなズダ袋をもっていて、機動隊員が「なんだそれは、お前、武道でもやるのか?」とほざいていた。その公安刑事は、われわれが「臨検」した公安のうちのひとりだった。頭がちょっと薄く、背が低いずんぐりした目の鋭い男だった。結局、私を見抜くことなく、全共闘部隊は五反田駅まで走って、青学へ退避することになった。その後、青学学生会館には、明学全共闘メンバーも常駐するようになった。明学大全共闘は、1969年6月にバリケード闘争に再度決起する。《写真:明治学院大学HPより転載引用》
●4.28沖縄闘争へ突進―死を決意―"特攻隊の心境″
1969年2月に中核派同盟員加盟とともに、勢力拡大を画策する右翼連合(「民主化連合」)との情宣戦、オルグ戦に集中。6項目要求を院長団交で確約させるという方針(1月/学長代行としては要求を受け入れていた)、来る4.28沖縄闘争への決起・情宣を全力で展開していく。2月~4月、全共闘の会議、中核派のほとんどすべての決起集会とデモに参加。数えきれないほどであった。着た切り雀の、飢えたる日々だったが、魂は高揚していた。1月に右翼テロを受けてから小刀を持ち、全共闘のなかでも決死・突進していくメンバーを、全共闘のなかでは「気違い部隊」とひそかに呼んでいた。法大チューターのTさんも、私を見て、「怖いなあ!」と評していた。自分では神風特攻隊のようにすでに死を決意して行動していたから、そういうオーラが出ていたかもしれない。流山児祥副議長は、武闘訓練のとき、ベルトの背後に鉈を差し込んでいた。青学正門前の赤レンガに、「首都制圧 首相官邸占拠」のステッカーを「4.28」の文字で形取って、青山通りを通行するすべてのひとびとにアピールした。青学ブントも、「霞が関占拠」のステッカーで全学を覆いつくした。毎日情宣とビラマキ、朝から夕方まで死力を尽くして、アジ演説を続けた。ほとんど食事らしいものを口にしていなかったが、カンパでもらった「浄財」で、学食のうどんや、パンで生きていた。相変わらず、下着など替えていない。ML派、社青同解放派のグループも、革マル派グループも「4.28 」に向かって走っていた。破防法適用の恫喝が現実となりつつあった。

《写真:新橋ガード下を進軍する混成部隊―ネットより転載引用》

《写真:新橋ガード下を進軍する混成部隊―ネットより転載引用》
4.28に向けて、4月に20歳になっていた私は、明日をも考えない、いまこのとき、死んでも構わないという気持ちでいた。前述の神風特攻隊員のようなものである。高校時代の好意をもっていた女子の家に、4月27日深夜、彼女に会いに行き、ほとんど何も話さなかったが、最後の別れと思った。お互い少し会話をして、目を見あって、沈黙のときを過ごした。彼女は上智大に進学していたが、察知して、黙って玄関で見送ってくれた。
4.28当日、青学全共闘部隊・ブント部隊・中核派部隊、東京駅に集結。ML派、社青同解放派、中核派各部隊と各大学全共闘部隊も合流、アジ演説と極度に緊張した時間空間のなかに、凄まじいエネルギーが沸騰していた。
「首都制圧・首相官邸占拠」-これが戦術目標である。公安機動隊の鉄のような防御態勢が構築されていた。
デモ行進は、東京駅から線路を全軍行進に移る。先頭部隊は新橋のほうまで行っただろうか、周りのビルには黒山の見物があった。しばらく行軍すると、有楽町駅手前から、機動隊が押し出してきた。投石、投石、投石。部隊は、押し込まれて、青学全共闘部隊は、一部が橋げたから下に落ちて、後日、アイビールックが似合っていたN君に聞いたら、腰をコンクリートの地面に打って、負傷した、とのことだった。たくさんの学友があのガードから落下させられたという。私は、機動隊員が走って押し出してきたので、投石で抵抗したが、ガードの細い鉄柱をたどりながら下におりた。近くに投げ捨てられていた樫の棍棒を拾って、有楽町駅の西銀座交差点へ向かった。青学中核グループのK君とそこで合流できた。夕暮れが近くなっていた。K君も棍棒を持っていた。歩道の群衆のなかに、公安刑事が2名いたので、K君と「こらあ~!」と大声をあげて威嚇、追いかけた。棍棒の先が少しかすったが、その逃げ足が速く、「逮捕」はできなかった。残念だった。4丁目銀座交差点手前の一つ手前の交差点に、警官がいたので、多分50~60m離れていただろうか、棍棒を横手に持ち、じりじりと迫ると、すると警官はもんどりうって身をひるがえして逃げ去った。回りは群衆の波である。群衆は注視していた。早く、首相官邸に向かわねば、とK君と西銀座方面へ戻ると、時間が経過するとともに、機動隊も押し出してきた。激しい投石、放水の応酬(有楽町駅前)。何発投石しただろうか、数えきれない。有楽町の交番は破壊されていた。そんな攻防戦が数時間深夜まで続いた。私は、K君と青学へ帰路についた。破防法が発動された。
4.28沖縄闘争の全国総決起、沖縄での25万県民の決起、ものすごい戒厳令防御態勢を敷いた公安・機動隊の防御は崩れ去った。首相官邸は占拠できなかったが、ほぼ勝利と言っていいと思ったが、自身は官邸に突入し、そこで自決する決意だった。それが、今でも悔恨である。
また、本闘争の総括の違いから、ブントが三派に分裂(大まかに、関西ブント・戦旗派・叛旗派)したが、残念なことだと素直に思った。青学ブントは中大、明大を中心に、三上氏・神津氏の下で、叛旗派に属した。叛旗派については、吉本隆明氏の共同幻想論や、呼号する「汝ら 我らの終わり候ところ 目を開いて見よ」(大塩平八郎の乱)、戦闘団の形成、ボルシェビキ・レーニンの組織論否定(レーニン主義的前衛党建設の否定)などユニークな組織論を持っていた。日比谷公園での、ブント三派の抗争では、関西ブントと戦旗派が戦っているうちは手を出さず、戦旗派が勝利、態勢を立て直すのを待って戦う、という一種の潔さがあった。荒さんも戦旗派のひとたちも、その辺は、悪罵を投げつけるというようなことはせず、ある意味、潔よし、と思っていたのではなかろうか。いずれにしろ、ブントが分解したという客観的事実は、敵権力・日共民青・革マル派にとっては、客観的に言えばだが、利を得たと思う。


《写真:戦旗派ブログ記事より転載引用)


《写真:戦旗派ブログ記事より転載引用)
後日、渋谷駅ハチ公前で、4.28沖縄闘争の報告をあわせて、青学全共闘が、情宣とカンパ活動を行い、沖縄闘争のパンフレット販売活動を行った。反響は大きかった。私は、アジ演説を腹から絞り出すように続けた。当時、渋谷ハチ公前に噴水広場があり、旗のポールが3本立っていた。西銀座で一緒だったK君と、中核グループのS君とで、そのポールのうち、2本に中核旗と、全共闘の旗をスルスルと掲げたことがある。渋谷ハチ公前のポールにふたつの闘う旗がひらめいていた。渋谷を通行していた市民もびっくりしたことだろうと推測するが、渋谷警察署/交番の警察官は何も言わなかった。この時のアジ演説最中に、マンドリンクラブリーダーのNさんが親しげに前に来て、声をかけてくれたので、私もアジ演説を中断して、話をした。Nさんはそのとき、「音楽活動を続けてプロにならないか?」と優しく声かけしてくれたのだ。ちょっとホロッときたが、当時の状況でそれは無理だった。Nさんは卒業後、CMの作曲など活躍され、有名人だったが、今は鬼籍におられる。ご冥福を祈りたい。
●1969年5月右翼学生自己批判(「リンチ事件」報道)以後、右翼一掃
4.28以降、日々の学内ビラマキ、クラスオルグ、院長糾弾・6項目要求団交の活動を死に物狂いで続けた。この時点で、右翼「民主化連合」は、学協/学生懇談会/青山真理会が表立って、集会やビラマキを行っていた。彼らも桜井学長代行後、就任した村上学長に対し、「学内正常化=民主化」等の「七項目要求」を突き付けていた。クラスオルグで文学部闘争委員会のDさん(女子/上級生)と新入生クラスに入ったことがある。教授に開始15分時間をもらい、自治会設立と全共闘への結集を訴えた。Dさんは青学でも、NO.1の「マドンナ」と言われるほどの美人で、おそらく新入生たちも「う~ん」と見とれていたと思う。男子も女子もである。
6月に入って、右翼が、凝りもせず、チャペルで集会を開いた。彼らの暴力的組織的妨害・バリ破壊などの学内活動をこれ以上許さない、と全共闘メンバー約50人で、彼らの集会が夕方終了した時点で、チャペルに押しかけ、自己批判要求を突き付けた。問答をしているなかで、学生会館ホール2階に連れて行き、それぞれ目隠しをして、手を縛り付け、口頭で話した内容で自己批判書に署名させた。右翼中心メンバー7~8名だったと記憶する。夜通しである。これが、いわゆる報道で「青学リンチ事件」として言われるものである。彼らは、肉体も屈強で、右翼活動の中心メンバーだったので、われわれもゲバルト棒と、鉄パイプ、金づち、などの武器を持って、彼らを学生会館まで「拉致」したのである。
深夜になって、暴力団が押しかけ、「おい!坊ちゃんを返してくれよ!」と正門前で大声をあげた。全共闘革マル派リーダーのFさんが対応し、追い返した。右翼メンバーのひとりは、神奈川方面/暴力団組織○○会の幹部が親で、その息子だったと思われる。翌朝、彼らを解放した。自己批判書は、文学部闘争委員長(2代目)のB君が立て看板と、ビラにして、青学生にその本質を明白に知らしめた。「民主化連合」は、大木子飼いの右翼組織であること、自由と自治を決して認めず、破壊する意図をもつこと、などである。彼らの拠点が大学に近い青山の某ビル内にあることも判明した。これ以降、学内での右翼活動は鳴りをひそめたが、学協の2名(男女各1名)がこの「リンチ事件」糾弾のビラを学内で巻いていたのを発見し、私は彼らを詰問、ビラとカバンを取り上げ、二度と学内に来るな、と約束させ、放逐した。学協は、現在の日本会議である。彼らもそれ以降、学内に顔を出せなかった。右翼学生連合も、姿を見せなくなった。青学全共闘は、彼らの組織的継続攻撃を暴力的に粉砕したのである。
この頃、ブントで、クラスメイトだったK君が、逃げた右翼を追いかけ捕まえたという事件があった。のちに渋谷警察公安は、彼を「逮捕罪」名目で逮捕勾留・起訴した。懲役10ヶ月ということだった。結果、後年、執行猶予がついたが、襲ってきた右翼は罪なし、である。
私は、この「リンチ事件」で文学部闘争委員長Y君、B君とともに、全国指名手配となり、実家と自宅にも公安が捜索に入ることとなった。しかし、私は、全共闘の活動と政治闘争に没入していった。ほとんど学生会館が寝泊まりの拠点になり、同時にS議長、流山児祥副議長にも指名手配がなされた。結果として、7月に私とY君、B君が逮捕勾留されたが、ほかのひとたちは無事だった。S議長、流山児祥副議長ともその後、逮捕をまぬがれた。
●国学院全共闘、学内右翼のテロ襲撃で学外へ放逐さるー青学へ避難・革マル派けが人多数援助、革マル派キャップと話合い
国学院大学で、右翼体育会系学生と全共闘(革マル派主体)が衝突する、という事態が起きた。革マル派が放逐され、多数のけが人が出て、青学に避難してきた。救援対策部を中心に、けが人の手当(流血・打撲多数)を行ったことがある。国学院大学革マル派キャップと話をつけ、党派対立は別にして、救護する、ということで話をつけた。このときに、青学革マル派Fさんも間に立った。全学闘全員と救援対策部チームが救護に当たった。国学院大学は、神道を中心とする大学で、右翼体育会系学生・応援団などが強力な勢力を持っていた。右翼に反撃に向かうかどうか革マル派キャップと協議したが、けが人手当が優先、ということでそのときは鉾を収めた。
●1969年5月―6月大学立法粉砕 全学バリケード封鎖闘争貫徹

村上学長を盾に、大木は6項目要求と団体交渉を拒否しつづけた。右翼妨害活動を制した青学全学闘は、6月20日全学無期限バリケードストライキに突入した。6.15、6.23安保総決起デモを貫徹しながら。学内総決起集会でアジ演説を行い、各学部闘争委員長、各派から激しい決意表明がなされる。嵐のような日々だった。バリケード構築は、全共闘部隊約200名、手際よく、路面に水をまきながら、椅子と机を正門前に積み上げて行った。
6.23デモの際は、明治公園から青山通りを横切り、片側規制の機動隊ともみ合いながら、進んだ。後続部隊が、旗竿を槍ふすまのように突出し、機動隊規制線をはねのけて、進。夕刻、逆方向からブント反帝全学連/赤ヘル部隊が旗を林立させて、デモ行進してきたのが見えた。そのまま反対側を通り過ぎるか?と思ったが、ブント部隊は踵を返して機動隊へ旗竿を突き付け、一斉に突進してきたのである。胸のすく思いがした。機動隊の片側規制は打ち破られた。われわれも、機動隊を押し戻し、四散させた。旗竿部隊の突撃、投石、後退する機動隊。何台かの駐車していた車のうち1台が横転され、バリケードとなった。通りは解放区となった。そのあとがどうも記憶にない。デモは機動隊の規制をはねのけて、貫徹された。赤坂御所のあたりで、公安刑事が学友を引き抜こうとしたので、背後から思い切り、尻を蹴り上げた。公安は誰に蹴られたかわからず、目を吊り上げて、あちこちの学友に突っかかっていた。機動隊員は正面の敵だが、この歩道から逮捕を狙う公安私服刑事が、私は大嫌いだった。単純に素直に、極めて卑怯だからである。
この5月から6月の青学全学闘のバリケードストライキと学内集会・デモの現況を、青学大学院生だった先輩が、8㎜フィルムでドキュメンタリー映画を製作していた。タイトルを『わたしの翼は飛び立つ用意ができている』というものだ。主演は私にオファーがあり、了解し、一部ドラマ仕立ての場面もあった。もうひとりの主演は、仏文科の女性だった。ここに写っている学内デモは圧巻で、校舎の上階から撮影していて、銀杏並木を通して、うねりのような約1000名の青学生たちの情熱が立ち昇っている。後日、映写会が学生会館ホールで行われ、多くの全共闘と青学生が見た。また、1969年度の卒業アルバムには、青学全共闘の闘いが、多数掲載されているそうである。実際に入手しようとしたが、できなかった。映画も院生先輩の手元にあるだろうか、不明である。
バリケードに対し、右翼あるいは暴力団と推測される火炎瓶攻撃が夜間なされた。正門バリを炎上させようとしたのだろう。追いかけたが、車で来て、車で逃げた。火炎瓶を使う、というのは、民主化連合の学内右翼ではなく、プロの右翼か、まず暴力団と推定可能かと思う。全共闘部隊は、警戒を厳重化して当たった。7月2日、青山通りを夜間、通行中の一般人を、右翼と勘違いして殴る、という事件が起きた。極度の緊張状態から起きたものである。一般人には申し訳ないことをした。その時、現場にはいなかったが、謝りたい。新聞の四コマ漫画で、通行人が横断歩道をわたるのに「通行人」という小旗をもっていく、という揶揄漫画が掲載されたのを覚えている。
●バリケードの中の「自主講座」-"カオス(混沌)のなかに 叛逆の軌跡を″
(1969年青山学院大学・学園祭テーマ)
このバリケードのなかで、「自主講座」を企画、竹中労氏、中嶋誠氏、などの講演会、討論会などいろいろな活動も行われたことを特記しておきたい。映画「十三人の刺客」(工藤栄一監督)上映会も催された。この映画はなぜ記憶にあるかというと、白黒映画ながら凄まじいリアルな剣と剣の白兵戦が描かれていたので、ものすごく空気が入ったからである。「気違い部隊」としては、最高の映画だった。近年、このリメイク版が上映された。
また、院長独裁体制への抗議闘争のなか、秋の青学祭では、たしか、1969年のテーマが「カオスのなかに 叛逆の軌跡を」だったと記憶している。各界の専門家、斉藤龍鳳氏講演、コンサートでは浅川マキ、大木康子、その他ロックバンドなども企画され、多彩だった。文連を主体に各部、同好会の自由な雰囲気、規制のないなかでの「青学祭」は、政治・文化・教育・理系研究など、自由に企画し、発表できること、楽しめること、真に根本的に重要だと認識した。
●7月機動隊導入・体育会Aが手引き、逮捕さる
7月中旬、突然早朝200名の機動隊が、南側裏門から侵入してきた。機動隊導入。理工学部に次いで、2回名となる。そのとき、学生会館部室に学友数名といた私は、学館の奥の部屋に逃げたが、そこに、文学部闘争委員長(初代)のY君、B君(2代目)も来て、公安刑事3名がナチス棒を持って、3人とも逮捕された。学館を出るとき、多数のマスコミが撮影とフラッシュを浴びせた。マスコミのことを、ブルジョア新聞帰れ、とよく呼号していたが、実感として、警察とつるんでいることがはっきり分かった。手錠で、3人とも渋谷警察署に連行、調書を取られ、留置された。この機動隊導入に関して、体育会の幹部Aが手引きをしていたことが後日判明。落書きにも、「伝統ある青山学院体育会の名を汚したA糾弾!」と体育会の人間があちこちに大書していた。武道にしろ、スポーツにしろ、警察につるんで内部情報を流すスパイ行為は、スポーツマンとして下劣そのものであった。体育会メンバーにも多くの良心があった。ある日、Aを見つけた全共闘シンパのA君(現在の三遊亭円楽氏)が、「おい、待てよ、オイ!」と追いかけたが、彼はこそこそ逃げ回っていた。Aは、小太りの小さな男だった。
拘留は、23日間。去る7月14日中核派同志のS君は、中核派デモ指揮者として、解散地新橋で、逮捕されており、同じ渋谷警察署に留置されていた。青学全共闘が4名、渋谷警察署にいたことになる。
逮捕容疑「監禁致傷・強要」。そもそも、7~8名の右翼学生を私ひとりが、監禁・致傷させ、自己批判させ、強要できるわけがなく、黙秘を貫いたから、調書上、起訴できる要件を満たしていなかった。Y君、B君も同様である。従って、8月初旬に「起訴猶予」で釈放(パイ)になった。その2日前には、中核派同志S君(公務執行妨害)もパイになった。
留置場では、雑居房で、50歳位の詐欺のおじさんが2名、窃盗の20代男1名、スリ現行犯45歳位男1名、がいた。詐欺のおじさんのうちひとりは、指名手配されていたが、富士吉田市の自宅にいても警察官と遭遇しても何も摘発されたことがなく、ながらく日常生活を送っていたそうだ。逮捕のきっかけは、交通違反をしたとき、照合され、詐欺犯指名手配とわかり、収監されたと言っていた。このおじさんは、刑事訴訟法に詳しく、20歳の私に「最低、刑事訴訟法は全部知っておかないとダメだよ、にいちゃん」と教えてくれた。「監獄法」は明治時代のものが、そのまま準用されていて、これは改正の必要がある、代用監獄もやめるべきだ、と持論を話してくれた。大いに参考になった。
彼は、戦時中は、中国戦線で兵士として従軍していて、国民党軍や八路軍より、中国のひとたち/民衆は日本軍が来ると、安心していたそうである。軍紀がものすごく厳しく、銃殺・収監されるため、略奪や殺戮などあり得なかった、と言っていた。歴史の授業で聞いたのとずいぶん違うな、と感じた。スリのおじさんは、エレベーター内で尻ポケットから掏ったが、なんとチリ紙の束だったそうで、ものすごく悔しがっていた。スリは現行犯逮捕が主なので、刑事から監視されていたのだろう、とよく、分析していた。それぞれ、その道で稼ぎをしているから、それなりに、警察や刑事のこと、法的なこと、監獄での生活をよく知っていた。みな初犯ではなかった。
取り調べは、毎日行われた。雑談には応じたが、このときに、10,8羽田闘争に動員された刑事の話、など聞いた。私の渋谷駅頭での情宣、アジ演説を聞いた刑事は、「こいつのアジは一流ですよ」と先輩公安に話していた。また、過激派のデモがあるときは、催涙ガスを多めに充填する、とか。「ふ~ん、そうなのか」と思った。救援対策部から差し入れがあった。
ある日、父が面会にきた。父に会うのは、5年ぶりだった。父は、「法律に基づいて、やらなきゃだめだぞ」と。父は、新橋で運輸省の同僚と飲んでいたところ、7月21日夜のNHKニュースを飲み屋のテレビで見て、同僚が「あれ、息子さんじゃないですか?!」と言われて、びっくりしたそうだ。そして、渋谷へ飛んできたのである。内心、うれしかった。テレビには、私とY君、B君が手錠姿で学館出口から連行されるところが、放送されていたそうである。
そして、8月21日、中大に続いて全国で2番目となるバリケード破壊のための大学治安法先取りの、機動隊200名導入がなされ、61名逮捕/バリケードは破壊撤去された。その後、ロックアウト体制が続く。後述のロックアウト粉砕闘争も継続していく。
●中核派全学連大会・本多延嘉氏の熱いこころ
1969年の中核派全学連大会は、ざっと1000人の各大学同志が集まった。そのなかで、本多延嘉氏の檄は、今でも忘れない。高校3年の革共同政治集会での秋山勝行委員長と並んで、感激した。全体は覚えていないが、「明治自由民権運動のとき、10万の竹やり部隊が、首都に向かって怒涛の進軍をした」と、自由民権運動の決起に触れた部分が、なぜか、こころに残っている。「安保粉砕・日帝打倒」戦略、大学をその砦に、安保粉砕闘争に決起せよ、との檄。1970年代に本多さんが革マル派の謀略でアジトが判明し、極めて陰惨なやり方で虐殺されたことは、残念の極みであった。(足に釘を打ち込む、というような・・もはや内部のゲバルトではない)革マル派は、それを機関紙に漫画イラストで「ポンタ殲滅」と書いていた。もし、黒田寛一が虐殺されたら、『前進』紙上に、漫画のイラストなど、中核派は書かない。腐敗している、と私は感じた。「遺体損傷」という行為がある。大東亜戦争における米兵の日本兵に対する遺体を凌辱する行為が多数あった。豪州軍が捕虜になった日本兵を、空輸中に突き落とした、という事件もあった。捕虜にするのが面倒くさい、という残酷な理由からである。ナチスも、GPU(ゲぺウ)も捕虜や死体損傷を平気で行った。中共八路軍でも、満州国での通州事件でもあった。それらは、戦争行為のなかでも条約で禁止されている犯罪である。日本軍が「生きて虜囚の辱めを受けず」というのは、虜囚に対する虐待・凌辱行為が必ずあったからだ。革マル派のこの心情は、上記に同じ根源をもつ、許されない行為である。~社青同解放派の中原さんも同様である。革マル派の下手人たちが報復により打倒されたのはいいとしても、トップリーダーの黒田寛一、NO.2松崎明が、追及を逃れてその命をベッドの上で果てたのは、何故だろうか。隠れるのがうまかったのか、防御が堅固だったのか、わからないが、革命運動にとって、本多さんと中原さんの死は、大きすぎる損失だったと思っている。リープクネヒトとローザの死にも匹敵する。
10.7羽田闘争前日の中核派の社青同解放派への「リンチ」行為は、許されるものではない。が、本多さんは、熱血の血潮たぎるような革命家だったし、おおらかな人柄、戦略的思考、力強いアジ、にほんとうに素晴らしいものだったと思う。
●12月糟谷君人民葬―革マル派とのゲバルト戦
糟谷君人民葬が12月に日比谷公園で開催された。記憶では、ことのとき、革マル派と集団戦になったかと思う。
このとき、最初、革マル派が公会堂向かって左手に押し込んできた。私は突進してきた革マル派学生と渡り合い、今度は彼らが逃げたので、細い竹竿だったが、それを片手に追いかけた。回りにあまり仲間がいなかったが、公会堂に向かって、右手にひとかたまりの革マル派メンバーがいた。ヘルがひとり、その周りに女子学生が4人身を寄せるように固まっていた。身をすくめて。一瞬、可哀そうだ、と思い、そのまま見過ごした。
内部ゲバルトと言えば、ML派の諸君とも日比谷公会堂でぶつかったことがあった。檀上の一番前にいた私は、向かいの相対するML派のなかに、青学のメンバーが2人いた。お互いに目があって、双方こりゃあちょっとな、と正直思ったので、適当にぶつかったことがある。だいたい、ML派とは、共によく機動隊と戦闘したし、革マル派以外はシンパシーを持っていた。日共民青はまったく別物の敵だ。意見や方針が違うといって、すぐ実力行使するのは、サルでもできる。俯瞰すれば、大敵は、だれか、ということだ。そこを自分はわきまえたかった。
青学の総決起集会でも、各派それぞれが挨拶と決意表明するが、マイクを独り占めせず、公平に順番でするのは、常識というものだ。後年、フロントメンバーだった学友と、タイのバンコクで再会したことがある。62歳のときだ。一緒に酒食をしながら、回想で彼が話したのは、決起集会のときに、ブント、中核と次にフロントだったが、マイクを長く独占せず、回してくれた、あの時は感心した、と42年後に語ってくれた。そういうものか、と思ったが、みな大敵と闘う同志なんじゃないのか、と私は考えていた。
党派の特徴というか、傾向というか、日共民青は別として、革マル派はどこか陰湿で、閉鎖的な感じがした。その組織論も、戦闘的大衆運動を背景に戦闘的革命的に運動展開する、よりも、自派のサークル的同心円的拡大と防衛、革命的マルクス主義的人間の創出、というもので、なにか、統一教会とか、創価学会・顕正会に似ている気がする。どちらも謀略に長けている。
日共民青は一般大衆にはソフトな顏を見せるが、内部には陰湿かつ攻撃的な体質を持っていた。全国のバリケード破壊に公安/機動隊と並んで、最も「貢献」したのは、彼らである。一般学生や右翼学生ではない。何度も反すうして振り返るが、彼らがもつ民主化棒(樫の棍棒)・角材・ヘルは、絶対に国家権力には向けられない。問題は、彼らが、「共産主義の前衛党」という名称をもつからだ。これは、「国家社会主義労働者党」(ナチス)と同じ構造である。1970年代の革マル派が、もはや、共に戦った1967~8年の党派とは異質な、同じ戦線の内側にいる党派ではなく、日共民青やナチスと同じになったのと同じである。「革命的な共産主義」の「革命的なマルクス主義」の党、とは。「八派解体」「他党派解体」「ウジ虫・青虫潰し」を激しく呼号するスターリン主義の党だったのだ。国家権力も欣喜雀躍しただろう。うれしくて。自分たちの手を汚さずに、民青や革マル派が掃除をしてくれる、というのだから。トロツキーを暗殺したスターリンと、本多さん・中原さんを暗殺した黒田寛一と、どこが違うというのだろうか。そして、その中核派も1980年代三里塚で、第四インターへ陰惨なテロを行うこととなった。大きな誤りである。条件派の公団土地売渡ももちろん糾弾すべきことは付記する。
渋谷駅頭でのカンパ活動中、駒場の民青幹部3人が論争をしかけてきたことがある。鋭い眼つきで睨みつけながら。彼らは、革マル派からゲバルトを受けたことをだいぶ根に持っていた。彼らには、革マル派も中核派も同じ打倒対象だったのだろう。われわれにもしつこく絡みついてきた。今度はその論争の周辺に右翼らしきものたちが集まりだし、大きな人だかりができた。言い争いは、だんだん収拾がつかなくなり、民青はいなくなり、今度は右翼や反全学連のサラリーマンや学生たちと論争になった。われわれは絶対に退かなかった。暴力で倒す、殺すのは決意すればある意味簡単であったが、口角泡を飛ばす論争・言い合い、はそれ自体面白かった。私が、青学学内右翼を駆逐したのは、彼が、論争など一切しない、当初から白軍手隊100人でバリ破壊活動と運動妨害、テロを行ってきたからである。そういうものには、鉄槌しかない。ものごとにはすべて過程というものがある。
●10月~11月 ロックアウト粉砕闘争、10.10-10.21闘争から11月佐藤訪米阻止闘争
8月の機動隊導入/ロックアウト攻撃から、その粉砕闘争とともに、政治闘争として10.21、11.16佐藤訪米阻止闘争が続いた。青学の状況は、年初の6項目要求は完全に反故とされ、右翼民主化連合の妨害行為が奏功しないことが、明確になると、大木は本格的な「外人部隊」機動隊を後ろ盾とした「大学立法を最初に体現させた大学」として青学を国家権力管理大学と化した。
すなわち、下記6点において強権圧政を率先して遂行したのである。
① 自治会設立準備委員会への予算凍結、
② ロックアウト態勢下での全共闘ほか反対派学生の締め出し
③ 教授・職員を総動員した検問協力強制(年老いた教授も何も関係なし)
④ 反対行動には機動隊と公安私服刑事(逮捕弾圧)
⑤ さらには右翼学生へのてこ入れ(資金・OB動員)
など各大学でなされた権力支配を先取りして体現させたのである。5月の時点で、大学に関する臨時措置法(大学立法=大学治安維持法)に反対する青学生3000名が、正門前から青山通りに、雪崩を打ってあふれ出し、文部省霞が関へデモ行進したその意志を踏みにじって。(註:青学は約8000名の学生在籍。無関心層が多数と言われた青学生の38%が 自然発生的にデモに加わった)
私は、ロックアウトへの抗議行動を続けるとともに、10.21闘争と11.16佐藤訪米阻止闘争へ入っていく。公安は、前年の轍を踏まないように、鉄壁の武装支配体制を組んだ。この武装した強権支配抑圧体制は、国家権力の恐怖と裏返しのものと思う。それほどに先鋭化していた。
10.10の前段決起集会では、周辺をギラギラした眼差しで、公安が監視をしていた。あの眼は血走っていたように思える。10.21総決起集会は、機動隊の臨検から始まり、徹底的に抑圧する、というものであった。デモは完全に抑え込まれ、火炎瓶と鉄パイプによる各地ゲリラ行動は果敢に闘われたが、多数の逮捕者を出した」。11.16では蒲田から羽田へのデモで、ゲリラ行動はやはり果敢に遂行されたが、多数の仲間が、逮捕された。


《写真左上下:ロックアウト体制実力破壊攻撃を行う丸太を持った青学全共闘部隊。右上:青山学院大学新聞/1969年年11月号「70年代への飛躍をかち取れ」―右下:「全共闘運動総括への一視点」》
青学の同志S君は、5月の新橋と7月に逮捕されて後、10.21高田馬場戦闘で逮捕されたから、1年で3回逮捕されたことになった。彼はそのとき、19歳だった。渋谷署で一緒に留置されていたとき、タバコ時間があったが、彼は可哀そうに未成年ということでタバコは吸えなかった。11月、蒲田周辺では同志のM君と行動をともにしていたが、バラバラにされて、薄暗いなか、何百人もの群集となっていた。弾圧に阻まれて行き所のないうっ憤のなかにいた。多数の学生、労働者のなかに、明らかに私服と思われる公安がいた。首に白いタオルを巻いて、「根性だよ、根性!」と叫んで、グレーのパンパンに、きつそうなズボンで空港方面へランニングしていたのである。誰が、全共闘部隊や党派部隊のなかで、「根性」なんていう言辞を吐くだろうか。一発で、公安私服とわかった。しかし、こんなのが自由に跋扈しているようじゃ、ダメだな、と一瞬思った。明学支援闘争のときのように、「臨検」してやろう、という気持ちもわかなかった。この公安刑事も今は80代だろう。M君は2018年に病のため、先に逝ってしまった。享年69歳だった。後年、彼は、敬虔なクリスチャンで、青学高等部同窓会長をしていて、人望が厚かった。私が大手物流会社に勤務していたときも、証券会社に勤めていて、ふらっと足を運んで、ふたりでお茶をしたものだ。奥様も青学生である。ご冥福を祈りたい。
私もこの秋の決戦に至る間に、足かけ4年の闘争生活となった。20歳であった。


※「青山学院大学新聞」と「青山学院大闘争資料」は、以下のサイトでご覧いただけます。
1968-70全国学園闘争図書館
http://meidai1970.sakura.ne.jp/gakuentousou.html
(つづく)
【お知らせ その1】
映画「きみが死んだあとで」4月17日(土)より公開開始!!

『きみが死んだあとで』
1967年10月8日。すべては第一次羽田闘争=きみの死」から始まった。青春だけが武器だった、あの異常に発熱した時代は何だったのか 。
半世紀を越えた記憶と歴史のはざまで、伝説の学生運動を3時間20分に圧縮した長編ドキュメンタリー。
4/17(土)~ユーロスペース他全国順次公開
東京:ユーロスペース 4/17~
北海道:シアターキノ
神奈川県:横浜シネマリン
群馬県:シネマテークたかさき
長野県:松本CINEMAセレクト
長野県:上田映劇
愛知県:名古屋シネマテーク
大阪府:第七藝術劇場
京都府:京都シネマ
『きみが死んだあとで』特別対談第2弾は、日本大学芸術学部学生有志の皆さんと代島治彦監督。現在二十歳前後の彼らにとっては祖父母にあたる世代のお話。既に記憶ではなく歴史の一ページですが、映画に映る同じ年ごろの青年たちの熱量に圧倒されつつ、現在の若者たちの間に蔓延する“同調圧力”と当時の学生たちにもあったであろう“同調圧力”を指摘する鋭い意見も。1960~70年代の若者たちの戦いと、2020年代の今を生きる自分たち自身の日常の戦いについて話が拡がりました。
日本大学芸術学部学生有志×代島治彦監督 スペシャル対談
【お知らせ その2】

『「全共闘」未完の総括ー450人のアンケートを読む』2021年1月19日刊行!
全共闘運動から半世紀の節目の昨年末、往時の運動体験者450人超のアンケートを掲載した『続全共闘白書』を刊行したところ、数多くのメディアで紹介されて増刷にもなり、所期の目的である「全共闘世代の社会的遺言」を残すことができました。
しかし、それだけは全共闘運動経験者による一方的な発言・発信でしかありません。次世代との対話・交歓があってこそ、本書の社会的役割が果たせるものと考えております。
そこで、本書に対して、世代を超えた様々な分野の方からご意見やコメントをいただいて『「全共闘」未完の総括ー450人のアンケートを読む』を刊行することになりました。
「続・全共闘白書」とともに、是非お読みください。
執筆者
<上・同世代>山本義隆、秋田明大、菅直人、落合恵子、平野悠、木村三浩、重信房子、小西隆裕、三好春樹、住沢博紀、筆坂秀世
<下世代>大谷行雄、白井聡、有田芳生、香山リカ、田原牧、佐藤優、雨宮処凛、外山恒一、小林哲夫、平松けんじ、田中駿介
<研究者>小杉亮子、松井隆志、チェルシー、劉燕子、那波泰輔、近藤伸郎
<書評>高成田亨、三上治
<集計データ>前田和男
定価1,980円(税込み)
世界書院刊
(問い合わせ先)
『続・全共闘白書』編纂実行委員会【担当・干場(ホシバ)】
〒113-0033 東京都文京区本郷3-24-17 ネクストビル402号
TEL03-5689-8182 FAX03-5689-8192
メールアドレス zenkyoutou@gmail.com
【1968-69全国学園闘争アーカイブス】
「続・全共闘白書」のサイトに、表題のページを開設しました。
このページでは、当時の全国学園闘争に関するブログ記事を掲載しています。
大学だけでなく高校闘争の記事もありますのでご覧ください。
http://zenkyoutou.com/yajiuma.html
【学園闘争 記録されるべき記憶/知られざる記録】
続・全共闘白書」のサイトに、表題のページを開設しました。
このペ-ジでは、「続・全共闘白書」のアンケートに協力いただいた方などから寄せられた投稿や資料を掲載しています。
知られざる闘争の記録です。
【お知らせ その3】
「語り継ぐ1969」
糟谷孝幸追悼50年ーその生と死
1968糟谷孝幸50周年プロジェクト編
2,000円+税
11月13日刊行 社会評論社

本書は序章から第8章までにわかれ、それぞれ特徴ある章立てとなっています。
「はしがき」には、「1969年11月13日、佐藤首相の訪米を阻止しようとする激しいたたかいの渦中で、一人の若者が機動隊の暴行によって命を奪われた。
糟谷孝幸、21歳、岡山大学の学生であった。
ごく普通の学生であった彼は全共闘運動に加わった後、11月13日の大阪での実力闘争への参加を前にして『犠牲になれというのか。犠牲ではないのだ。それが僕が人間として生きることが可能な唯一の道なのだ』(日記)と自問自答し、逮捕を覚悟して決断し、行動に身を投じた。
糟谷君のたたかいと生き方を忘却することなく人びとの記憶にとどめると同時に、この時代になぜ大勢の人びとが抵抗の行動に立ち上がったのかを次の世代に語り継ぎたい。
社会の不条理と権力の横暴に対する抵抗は決してなくならず、必ず蘇る一本書は、こうした願いを共有して70余名もの人間が自らの経験を踏まえ深い思いを込めて、コロナ禍と向きあう日々のなかで、執筆した共同の作品である。」と記してあります。
ごく普通の学生であった糟谷君が時代の大きな波に背中を押されながら、1969年秋の闘いへの参加を前にして自問自答を繰り返し、逮捕を覚悟して決断し、行動に身を投じたその姿は、あの時代の若者の生き方の象徴だったとも言えます。
本書が、私たちが何者であり、何をなそうとしてきたか、次世代へ語り継ぐ一助になっていれば、幸いです。
【お申し込み・お問い合わせ先】
1969糟谷孝幸50周年プロジェクト事務局
〒700-0971 岡山市北区野田5-8-11 ほっと企画気付
電話086-242-5220(090-9410-6488 山田雅美)FAX 086-244-7724
E-mail:m-yamada@po1.oninet.ne.jp
【お知らせ その4】
ブログは隔週で更新しています。
次回は4月30日(金)に更新予定です。
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