「1960年代と私」は、重信房子さんが大学(明治大学)時代を回想した自伝的文章である。この「1960年代と私」は三部構成となっており、第一部は明大入学の1965年から1966・67年の明大学費闘争まで、第二部は1967年から1969年にかけての砂川闘争、10・8羽田闘争、神田カルチャラタン闘争など、第三部は「赤軍派時代」として1969年の赤軍派結成から赤軍派崩壊、そして連合赤軍への道が描かれている。
「1960年代と私」の第一部は、既に私のブログで公開しており、2017年5月に公開を終えている。
今回、第二部の原稿が届いたので、1年半ぶりに第二部の公開を開始することにした。
第二部の目次を付けたが、文字量が多いので、8回程度に分けて公開していきたい。今回は、第二部第一章(1-3)である。
「1960年代と私」の第一部は、既に私のブログで公開しており、2017年5月に公開を終えている。
今回、第二部の原稿が届いたので、1年半ぶりに第二部の公開を開始することにした。
第二部の目次を付けたが、文字量が多いので、8回程度に分けて公開していきたい。今回は、第二部第一章(1-3)である。
<目 次>
高揚する学生運動の中で(1967年から69年)
第二部第一章
社学同参加と現代思想研究会(67年)
1.私の触れた学生運動の時代 (今回掲載)
2.全学連再建と明大「2・2協定」 (今回掲載)
3.明大学費闘争から再生へ(大学内の闘い) (今回掲載)
4.社学同加盟と現代思想研究会
5.67年現思研としての活動
6.67年春福島県議選のこと
7.全学連の活動ー砂川闘争
8.67年学園闘争の中で
9.10・8羽田闘争へ
10.10・8羽田闘争の衝撃
高揚する学生運動の中で(1967年から69年)
第二部第一章
社学同参加と現代思想研究会(67年)
1.私の触れた学生運動の時代 (今回掲載)
2.全学連再建と明大「2・2協定」 (今回掲載)
3.明大学費闘争から再生へ(大学内の闘い) (今回掲載)
4.社学同加盟と現代思想研究会
5.67年現思研としての活動
6.67年春福島県議選のこと
7.全学連の活動ー砂川闘争
8.67年学園闘争の中で
9.10・8羽田闘争へ
10.10・8羽田闘争の衝撃
第二部第二章
国際連帯する学生運動
1.高揚する街頭行動と全学連
2. 三里塚闘争への参加
3.68年高揚の中の現思研
4.御茶ノ水・神田カルチェラタン闘争へ
5.三派全学連分裂ー反帝全学連へ
6.ブントの国際連帯集会
7.全国全共闘の波
8.現思研の仲間遠山美枝子さんのこと
9.現思研・社学同とML派の対立
10.69年東大闘争
11.教育実習と4・28闘争
国際連帯する学生運動
1.高揚する街頭行動と全学連
2. 三里塚闘争への参加
3.68年高揚の中の現思研
4.御茶ノ水・神田カルチェラタン闘争へ
5.三派全学連分裂ー反帝全学連へ
6.ブントの国際連帯集会
7.全国全共闘の波
8.現思研の仲間遠山美枝子さんのこと
9.現思研・社学同とML派の対立
10.69年東大闘争
11.教育実習と4・28闘争
「1960年代と私」第二部
高揚する学生運動の中で(1967年から69年)
第一章 社学同参加と現代思想研究会(1967年)
1.私の触れた学生運動の時代
60年代の学生運動を語るとすれば、戦後の学生運動の流れから、日本最大の大衆運動となった60年の日米安保条約反対闘争のことを記す必要があるかもしれません。
しかし、私や私たち世代の闘いのエピソートをふり返るにあたっては、やはり体感した60年代中期以降の活動と、その様相から書き始めたいと思います。
日本共産党から分裂して、独自に主体的に60年日米安保反対闘争を闘った共産主義者同盟(ブント)は、安保闘争後、闘いを終えてその使命を終えたかのように行き詰まり、安保闘争の総括をめぐって混迷したまま分解していきました。同じ頃、日本共産党の学生組織も再建され、また、別個に成長した反スターリン主義・永続革命を唱えるトロッキー主義潮流を含めて、ハンガリー動乱や「中ソ論争」をめぐってソ連の批判や論争が続き、学生運動も革命運動も再編されていく時代にあったといえます。
60年代前半期のそうした味方内部の論争を経て、大学では「大管法」をめぐる闘い、政治的には日韓条約をめぐる闘いが始まります。
日本は60年安保後の高度成長策を軌道にのせて、経済成長が本格化していきます。米国の反共戦略のイニシアチブのもとで、それが日韓条約へと結びつき、日本はアジアとの新しい関係を構築する途上にありました。
反政府運動では、米国のアジア侵略に反対し、また日本政府の米アジア戦略加担と、日韓条約反対闘争の中で、活発に歩み始めました。国会では、社会党、日本共産党(日共)などの野党勢力は、自民党の政策に反対し、その行動は国会外の大衆運動と連動して、日韓条約反対闘争も活発化していました。この大衆運動の中で、共闘しつつも独自の潮流として60年安保を闘ったブントを継承した学生たちの運動も足並みを揃え始めました。この潮流は、ブントの日共批判を思想的路線的に継承し、日共の「議会主義」「一国主義」「官僚主義」を批判する新しい左翼の流れに位置していました。その中には「反スターリン主義」「永続革命派」が多くを占めていましたが、トロッキストの影響を受けつつも、必ずしもトロッキストのみを意味したわけではありません。
この新しい左翼は、日共の「議会主義」「反米民族民主主義革命」には、「暴力革命」「日帝打倒社会主義革命」を掲げ、「インターナショナリズム」を旗印としていました。そして、これまでのソ連に統合されている国際共産主義運動を「一国革命の総和」と批判し、世界革命を求めます。こうした潮流はニューレフト(「新左翼」)と呼ばれ、日本だけの現象ではなく、資本主義国中心に、既存の共産党のあり方を批判する新しい左翼勢力として成長していきます。
日本の新左翼運動は、64年6月に東京都学生連合(都学連)再建準備大会を実現することで、60年ブントの流れを継承する学生運動として、統一の兆しが示されてきました。関西では、60年安保闘争を闘った勢力は、一部トロッキー主義へと流れつつも、関西ブントとして以降も闘いを継続していました。63年にはトロッキスト潮流の「革命的共産主義者同盟」(革共同)の中から、60年安保ブントを継承した本多、北小路さんらが、暴力的対立の中から、「革共同中核派」として分裂し、新しい革命党として出発しています。一方で、ブントの流れを組む「東京社学同」が再建されるなど、これらの勢力の動きが下地となって、都学連再建準備大会を進めていました。この都学連勢力は、64年9月には「米・原潜寄港阻止横須賀集会」に2千人が参加し、組織的再建と共に、街頭闘争も活性化していきます。10月・11月と米原潜寄港阻止・日韓会議反対闘争を闘い、12月には「原潜阻止・日韓会議反対全国学生共闘会議」を結成しています。
1.私の触れた学生運動の時代
60年代の学生運動を語るとすれば、戦後の学生運動の流れから、日本最大の大衆運動となった60年の日米安保条約反対闘争のことを記す必要があるかもしれません。
しかし、私や私たち世代の闘いのエピソートをふり返るにあたっては、やはり体感した60年代中期以降の活動と、その様相から書き始めたいと思います。
日本共産党から分裂して、独自に主体的に60年日米安保反対闘争を闘った共産主義者同盟(ブント)は、安保闘争後、闘いを終えてその使命を終えたかのように行き詰まり、安保闘争の総括をめぐって混迷したまま分解していきました。同じ頃、日本共産党の学生組織も再建され、また、別個に成長した反スターリン主義・永続革命を唱えるトロッキー主義潮流を含めて、ハンガリー動乱や「中ソ論争」をめぐってソ連の批判や論争が続き、学生運動も革命運動も再編されていく時代にあったといえます。
60年代前半期のそうした味方内部の論争を経て、大学では「大管法」をめぐる闘い、政治的には日韓条約をめぐる闘いが始まります。
日本は60年安保後の高度成長策を軌道にのせて、経済成長が本格化していきます。米国の反共戦略のイニシアチブのもとで、それが日韓条約へと結びつき、日本はアジアとの新しい関係を構築する途上にありました。
反政府運動では、米国のアジア侵略に反対し、また日本政府の米アジア戦略加担と、日韓条約反対闘争の中で、活発に歩み始めました。国会では、社会党、日本共産党(日共)などの野党勢力は、自民党の政策に反対し、その行動は国会外の大衆運動と連動して、日韓条約反対闘争も活発化していました。この大衆運動の中で、共闘しつつも独自の潮流として60年安保を闘ったブントを継承した学生たちの運動も足並みを揃え始めました。この潮流は、ブントの日共批判を思想的路線的に継承し、日共の「議会主義」「一国主義」「官僚主義」を批判する新しい左翼の流れに位置していました。その中には「反スターリン主義」「永続革命派」が多くを占めていましたが、トロッキストの影響を受けつつも、必ずしもトロッキストのみを意味したわけではありません。
この新しい左翼は、日共の「議会主義」「反米民族民主主義革命」には、「暴力革命」「日帝打倒社会主義革命」を掲げ、「インターナショナリズム」を旗印としていました。そして、これまでのソ連に統合されている国際共産主義運動を「一国革命の総和」と批判し、世界革命を求めます。こうした潮流はニューレフト(「新左翼」)と呼ばれ、日本だけの現象ではなく、資本主義国中心に、既存の共産党のあり方を批判する新しい左翼勢力として成長していきます。
日本の新左翼運動は、64年6月に東京都学生連合(都学連)再建準備大会を実現することで、60年ブントの流れを継承する学生運動として、統一の兆しが示されてきました。関西では、60年安保闘争を闘った勢力は、一部トロッキー主義へと流れつつも、関西ブントとして以降も闘いを継続していました。63年にはトロッキスト潮流の「革命的共産主義者同盟」(革共同)の中から、60年安保ブントを継承した本多、北小路さんらが、暴力的対立の中から、「革共同中核派」として分裂し、新しい革命党として出発しています。一方で、ブントの流れを組む「東京社学同」が再建されるなど、これらの勢力の動きが下地となって、都学連再建準備大会を進めていました。この都学連勢力は、64年9月には「米・原潜寄港阻止横須賀集会」に2千人が参加し、組織的再建と共に、街頭闘争も活性化していきます。10月・11月と米原潜寄港阻止・日韓会議反対闘争を闘い、12月には「原潜阻止・日韓会議反対全国学生共闘会議」を結成しています。

(1964.11.7横須賀)
この頃には、日共の指導下にあった平和と民主主義のための学生連合「平民学連」は、「全学連」として再建され、新左翼系の活動を「トロッキスト」とか「暴力主義者」と否定し、別個に敵対的な潮流として学生運動を形成しています。
65年に入ると、学生運動、ことに新左翼運動はラジカルな活動スタイルで新しい生命力をみなぎらせて混迷の時代に終止符を打ち、統一の流れに向かいます。これらの新左翼潮流の特徴は、かっての60年安保ブントがそうであったように、大衆行動、現地闘争をひるまず誠実に闘い抜くところにありました。つまり、権力の弾圧に抗して闘う以上、先鋭化は避けられない道を歩み続けるのです。
65年2月、椎名外相は日韓条約協議のため韓国訪問が決まり、この椎名外相訪韓阻止羽田現地闘争から、秋の日韓条約を巡る国会での大詰めを迎えて、激動の日韓条約反対闘争が続きます。
65年に入ると、学生運動、ことに新左翼運動はラジカルな活動スタイルで新しい生命力をみなぎらせて混迷の時代に終止符を打ち、統一の流れに向かいます。これらの新左翼潮流の特徴は、かっての60年安保ブントがそうであったように、大衆行動、現地闘争をひるまず誠実に闘い抜くところにありました。つまり、権力の弾圧に抗して闘う以上、先鋭化は避けられない道を歩み続けるのです。
65年2月、椎名外相は日韓条約協議のため韓国訪問が決まり、この椎名外相訪韓阻止羽田現地闘争から、秋の日韓条約を巡る国会での大詰めを迎えて、激動の日韓条約反対闘争が続きます。

(1965.2.16椎名外相訪韓阻止闘争)
このころのブントの再建過程を見てみると、60年安保闘争を闘った関西ブントは、京都府学連を中心にして、ブントとしての活動を継続していました。64年9月には、関西ブントとしてブント中央委員会を開き、地域の組織拡大を掲げ、65年4月には新しい学運動論を提出しています。「政治闘争・社会政治闘争―第三期学生運動論」というもので、京都府学連書記長の一向健(塩見孝也さんのペンネーム)によって提出されています。
65年6月には、ブントは東京や関西地方含めて共産主義者同盟(統一委員会)結成大会を開きました。関西・東京のブント社学同を中心にして、ブントを全国組織化し、「第二次ブント」を結成したわけです。この再建されたブントの議長に松本礼二さんが就きました。(その後、66年5月第2回ブント大会において「共産主義者同盟の全国的確立・大ブント構想の一環」としてマルクス主義戦線派(マル戦)との統一を決定しています。)そして65年7月31日に、社学同再建大会を開き、社学同も再建しています。社学同は、全国委員会の委員長に高橋茂夫さん、副委員長に塩見孝也さんと高原浩之さん、書記長に斉藤克彦さんを選び、第二次ブントとして闘いつつ、全学連再建にむけて活動を重視していきます。この時期には、ベ平連(「ベトナムに平和を!市民連合」)も結成され、ベトナム戦争反対闘争と、日韓条約反対闘争が勢いよく盛り上がっていた時です。65年7月、ブント社学同の再建のころ、労働組合の最大組織の「総評」青年部、社会党の青年部の「社青同」、ベ平連の小田実さんらの呼びかけで「ベトナム戦争反対・日韓条約批准阻止のための反戦青年委員会」(略称「反戦青年委員会」)が結成されます。それは、労働組合などの42団体、ブントら10の左翼団体を含む、非日共系の統一戦線的な団体として、社会党と総評の枠内から生まれたものです。こうした時代の転換期の65年4月に私は明治大学に入学したわけです。
65年6月には、ブントは東京や関西地方含めて共産主義者同盟(統一委員会)結成大会を開きました。関西・東京のブント社学同を中心にして、ブントを全国組織化し、「第二次ブント」を結成したわけです。この再建されたブントの議長に松本礼二さんが就きました。(その後、66年5月第2回ブント大会において「共産主義者同盟の全国的確立・大ブント構想の一環」としてマルクス主義戦線派(マル戦)との統一を決定しています。)そして65年7月31日に、社学同再建大会を開き、社学同も再建しています。社学同は、全国委員会の委員長に高橋茂夫さん、副委員長に塩見孝也さんと高原浩之さん、書記長に斉藤克彦さんを選び、第二次ブントとして闘いつつ、全学連再建にむけて活動を重視していきます。この時期には、ベ平連(「ベトナムに平和を!市民連合」)も結成され、ベトナム戦争反対闘争と、日韓条約反対闘争が勢いよく盛り上がっていた時です。65年7月、ブント社学同の再建のころ、労働組合の最大組織の「総評」青年部、社会党の青年部の「社青同」、ベ平連の小田実さんらの呼びかけで「ベトナム戦争反対・日韓条約批准阻止のための反戦青年委員会」(略称「反戦青年委員会」)が結成されます。それは、労働組合などの42団体、ブントら10の左翼団体を含む、非日共系の統一戦線的な団体として、社会党と総評の枠内から生まれたものです。こうした時代の転換期の65年4月に私は明治大学に入学したわけです。
2.全学連再建と明大「2・2協定」
65年の日韓条約反対闘争を経て高揚した学生運動は、66年に入っても拡がり続けました。同じころ、学費値上げ問題が深刻化していきました。これは、全国私学共通の問題としてあったためです。慶應大学同様、早稲田大学でも学費値上げ反対闘争は150日間にわたるバリケードストライキで闘いぬきました。しかし66年、文学部バリケードが撤去されてストライキ闘争は幕を閉じさせられました。だからといって、闘いは死んだわけではなく、学生たちも、また、党派的な活動も、良くも悪くも強固にきたえられたのです。そして闘いは各地に広がりました。66年には横浜国立大学では、教員養成制度の改悪阻止全学ストライキ、慶應では専門科目削減反対闘争、立教大では学館の管理運営や生協の闘い、東大では五月祭警官パトロール抗議闘争、青山学院大では処分反対闘争、京大では自衛官入学反対・フォード財団委託研究反対闘争など拡大していったのが66年です。明大でも66年から学費値上げ反対闘争が本格化します。
65年日韓条約反対闘争を都学連として大衆運動の一翼で闘いぬいた成果をふまえて、66年3月、都学連指導部を中心にして、12月には全学連を再建するという方針を決定しました。そして、すでに「はたちの時代」(「1960年代と私」第一部)で述べたように、66年12月、全国35大学、71自治会、1,800人の結集参加によって、全学連が再建されています。民青系全学連、革マル系全学連に続いて「三派全学連」がここに結成されたわけです。
65年の日韓条約反対闘争を経て高揚した学生運動は、66年に入っても拡がり続けました。同じころ、学費値上げ問題が深刻化していきました。これは、全国私学共通の問題としてあったためです。慶應大学同様、早稲田大学でも学費値上げ反対闘争は150日間にわたるバリケードストライキで闘いぬきました。しかし66年、文学部バリケードが撤去されてストライキ闘争は幕を閉じさせられました。だからといって、闘いは死んだわけではなく、学生たちも、また、党派的な活動も、良くも悪くも強固にきたえられたのです。そして闘いは各地に広がりました。66年には横浜国立大学では、教員養成制度の改悪阻止全学ストライキ、慶應では専門科目削減反対闘争、立教大では学館の管理運営や生協の闘い、東大では五月祭警官パトロール抗議闘争、青山学院大では処分反対闘争、京大では自衛官入学反対・フォード財団委託研究反対闘争など拡大していったのが66年です。明大でも66年から学費値上げ反対闘争が本格化します。
65年日韓条約反対闘争を都学連として大衆運動の一翼で闘いぬいた成果をふまえて、66年3月、都学連指導部を中心にして、12月には全学連を再建するという方針を決定しました。そして、すでに「はたちの時代」(「1960年代と私」第一部)で述べたように、66年12月、全国35大学、71自治会、1,800人の結集参加によって、全学連が再建されています。民青系全学連、革マル系全学連に続いて「三派全学連」がここに結成されたわけです。

(1966.12全学連再建大会)
この66年12月の三派全学連の再建は、当初から激しい怒号や論争という、後の分裂を思わせる出発をなしています。それはまず、大会前からこれまでの全学連の継承のあり方をめぐってもめています。
中核派は「第20回大会」を主張し、社学同は「第17回大会」とすべきだといい、社青同解放派は「第1回大会」を主張して折り合えないのです。その結果、結局「全学連再建大会」とのみ呼称することになっています。論争しては妥協点をみつけながら、全学連再建大会は、基本スローガンと3大基本路線を決議しました。基本スローガンは、「侵略と抑圧に抗し、学生の生活と権利を守れ」を採択しています。
そして、3大基本路線は
1.我々の闘いは政府・支配者階級の攻撃に対決し、学生人民の生活と権利を守る闘いである。
2.この闘いは、弾圧と非難と孤立に耐えぬく実力闘争以外に貫徹しえない。
3.その為の闘争組織を作り、闘いの砦・自治会に結集して闘う。
というものです。そして以上の方針を執行する中央執行委員会メンバーを選出しました。(中執メンバーの構成は、三派各9名、書記局構成は「社学同」「中核派」各5名、「解放派」3名、「ML派」と「第四インター」は執行部人事に加わらなかった。)全学連委員長は「明大社学同」の斎藤克彦都学連委員長が選ばれています。
明大記念館で行われたのは、2日にわたる全学連大会の最初の日だったと思います。ちょうど、12月1日に、二部学生大会で民青系執行部の学苑会(二部夜間部学生の中央執行機関)から、対案によって60年安保以来、学苑会執行部を奪回して活動をはじめたばかりの私たちも、この明大バリケードストライキの中で行われた大会を見に行ったものです。革マル系全学連による妨害の動きと、機動隊による包囲の校門外の態勢、構内は明大当局の監視もありました。激しい野次と熱気、しまいには、壇上にかけあがっての小競り合いと、何を決めているのかよく理解できない大会でした。中断して議長団が話合ったり、わけのわからないうちに大会は終了しましたが、明大記念館を轟かすような大勢によるインターナショナルの歌は素晴らしかったと心に残りました。この再建全学連大会は、全学連委員長斉藤克彦(明大)、副委員長蒲池裕治(同志社)と高橋幸吉(早稲田・解放派)書記長秋山勝行(横国大・中核派)を選出しました。
全学連が結成されたことは、当時は、全面的に学生の利益となる闘いの強化だと思っていました。でも、それにはプラス効果とマイナス効果があったと、後知恵的ですが、とらえ返すことができます。プラス面は、全国の大学が「学問の自由」「大学の自治」を土台に共通の問題を個別大学の枠を越えて考える基盤が生まれたことです。共通に直面している問題を理解しあい、相互に支援し合って共同して解決する条件が生まれたことです。日本政府に対する政治闘争においても、野党社会党や共産党、労働組合、総評、産別や「反戦青年委員会」などと、「全学連」として共闘し、統一行動もとれるようになります。また、各大学も全学連と結びつくことで、共通の政治課題にすみやかに行動しうる有利な条件が生まれました。また、明大もそうだったように、日共系による大学を越えた地区党らを含む組織的な競合、対立に対して、私たちも組織的拠り所を持ったことは有効だと思っていました。
しかし、否定面もありました。それは第一に、以降深まる党派の争いの影響です。すでに「都学連」として、日韓条約反対闘争を闘ってきた街頭行動にも現れていましたが、全学連の主導権をめぐって、中核派、ブント、社青同解放派、ML派などの争いが絶えずくり返されたことです。世界各地の解放・革命組織と共同したり、交流してきた私自身の経験に照らしてとらえ返すと、党派闘争によって殺人に至る持続的な「内ゲバ」暴力は、日本の左翼運動にとりわけ特徴的な傾向であったと思います。
これは第三インターナショナルの「加盟条件」に示され、スターリン時代に厳格に適用された「一国一党」の原則の無自覚な教条化なのかもしれません。自己の党の「無謬性」によって、「唯一性」を主張し、他を認めないあり方です。他党派を批判することで自党の「無謬性」を理論的に証明し、それを立脚点として自己正当化していきます。スターリンやスターリン主義を批判しつつ、「唯一性」と「無謬性」の拘泥は、同じ陥穽にあると思わざるをえません。結局、理論、政策、路線の競合のみならず、物理的に相手を解体しようとする「内ゲバ」に至り、自分たちの側からしか物事が見えず、対象化しえない分、共に闘うべき人々を離反させる結果に至っていきました。
第二の否定面は、やはり第一の党派のあり方の影響でもありますが、大学の自治会が党派の「下部組織」のような位置に陥ったことです。学生運動や、自治会活動は、革命を目指す党派からみれば、重要な一翼ではあっても、そこに党を代行させることはできません。全学連は「大衆闘争機関」であり、学生運動を革命党派の「下部組織」のように位置づけるあり方は、ますます全学連執行部や自治会人事を権力闘争の場にしていったのだと思います。逆にいえば、党派は大衆運動機関の質にとどまっていたともいえると思います。
66年12月、全学連(三派)は再建され、明大社学同の斎藤克彦さんが委員長となりました。このことは明大学費値上げ反対闘争に作用したといえます。すでに「はたちの時代」(「1969年代と私」第一部)の明大学費値上げ反対闘争で書いたように、再建大会から2ケ月もしないうちに、いわゆる「2・2協定」が調印されています。
明大の学費値上げを、学生代表らとの合意を破り、理事会が一方的に学生へのダイレクトメールで通知するという事件が66年12月に発覚した後の闘いです。学費値上げの必要性を問い、学問の充実や「自治」をめぐる問題とあわせて、1月から話合いが続いていました。学費値上げ以外の方法を学生側は問い、理事会に誠意を求め続けました。理事会側は66年12月15日の正式表明まで、のらりくらりと「値上げをする」という確答を避けていました。しかし理事会側もそれまでは一時期値上げすることを迷っていたし、また、進歩派といわれた学長小出康二さんは「値上げ撤回を考えてはどうか」と、宮崎学生部長(当時)に相談したりしていました。66年には「値上げ凍結」で話合う機会もあったかもしれません。しかし67年1月には、すでに値上げが示された上で話合いが続いていました。そして1月30日、機動隊が導入され、理事会はこれまでの妥協をも撤回しています。全学連委員長を引き受けたばかりの、明大社学同のリーダーたちは、学長名による1月30日付学費値上げ反対の昼間部と夜間部の闘争機関の「解散命令」後にも、何とか収拾しようとあせったのでしょう。
中核派は「第20回大会」を主張し、社学同は「第17回大会」とすべきだといい、社青同解放派は「第1回大会」を主張して折り合えないのです。その結果、結局「全学連再建大会」とのみ呼称することになっています。論争しては妥協点をみつけながら、全学連再建大会は、基本スローガンと3大基本路線を決議しました。基本スローガンは、「侵略と抑圧に抗し、学生の生活と権利を守れ」を採択しています。
そして、3大基本路線は
1.我々の闘いは政府・支配者階級の攻撃に対決し、学生人民の生活と権利を守る闘いである。
2.この闘いは、弾圧と非難と孤立に耐えぬく実力闘争以外に貫徹しえない。
3.その為の闘争組織を作り、闘いの砦・自治会に結集して闘う。
というものです。そして以上の方針を執行する中央執行委員会メンバーを選出しました。(中執メンバーの構成は、三派各9名、書記局構成は「社学同」「中核派」各5名、「解放派」3名、「ML派」と「第四インター」は執行部人事に加わらなかった。)全学連委員長は「明大社学同」の斎藤克彦都学連委員長が選ばれています。
明大記念館で行われたのは、2日にわたる全学連大会の最初の日だったと思います。ちょうど、12月1日に、二部学生大会で民青系執行部の学苑会(二部夜間部学生の中央執行機関)から、対案によって60年安保以来、学苑会執行部を奪回して活動をはじめたばかりの私たちも、この明大バリケードストライキの中で行われた大会を見に行ったものです。革マル系全学連による妨害の動きと、機動隊による包囲の校門外の態勢、構内は明大当局の監視もありました。激しい野次と熱気、しまいには、壇上にかけあがっての小競り合いと、何を決めているのかよく理解できない大会でした。中断して議長団が話合ったり、わけのわからないうちに大会は終了しましたが、明大記念館を轟かすような大勢によるインターナショナルの歌は素晴らしかったと心に残りました。この再建全学連大会は、全学連委員長斉藤克彦(明大)、副委員長蒲池裕治(同志社)と高橋幸吉(早稲田・解放派)書記長秋山勝行(横国大・中核派)を選出しました。
全学連が結成されたことは、当時は、全面的に学生の利益となる闘いの強化だと思っていました。でも、それにはプラス効果とマイナス効果があったと、後知恵的ですが、とらえ返すことができます。プラス面は、全国の大学が「学問の自由」「大学の自治」を土台に共通の問題を個別大学の枠を越えて考える基盤が生まれたことです。共通に直面している問題を理解しあい、相互に支援し合って共同して解決する条件が生まれたことです。日本政府に対する政治闘争においても、野党社会党や共産党、労働組合、総評、産別や「反戦青年委員会」などと、「全学連」として共闘し、統一行動もとれるようになります。また、各大学も全学連と結びつくことで、共通の政治課題にすみやかに行動しうる有利な条件が生まれました。また、明大もそうだったように、日共系による大学を越えた地区党らを含む組織的な競合、対立に対して、私たちも組織的拠り所を持ったことは有効だと思っていました。
しかし、否定面もありました。それは第一に、以降深まる党派の争いの影響です。すでに「都学連」として、日韓条約反対闘争を闘ってきた街頭行動にも現れていましたが、全学連の主導権をめぐって、中核派、ブント、社青同解放派、ML派などの争いが絶えずくり返されたことです。世界各地の解放・革命組織と共同したり、交流してきた私自身の経験に照らしてとらえ返すと、党派闘争によって殺人に至る持続的な「内ゲバ」暴力は、日本の左翼運動にとりわけ特徴的な傾向であったと思います。
これは第三インターナショナルの「加盟条件」に示され、スターリン時代に厳格に適用された「一国一党」の原則の無自覚な教条化なのかもしれません。自己の党の「無謬性」によって、「唯一性」を主張し、他を認めないあり方です。他党派を批判することで自党の「無謬性」を理論的に証明し、それを立脚点として自己正当化していきます。スターリンやスターリン主義を批判しつつ、「唯一性」と「無謬性」の拘泥は、同じ陥穽にあると思わざるをえません。結局、理論、政策、路線の競合のみならず、物理的に相手を解体しようとする「内ゲバ」に至り、自分たちの側からしか物事が見えず、対象化しえない分、共に闘うべき人々を離反させる結果に至っていきました。
第二の否定面は、やはり第一の党派のあり方の影響でもありますが、大学の自治会が党派の「下部組織」のような位置に陥ったことです。学生運動や、自治会活動は、革命を目指す党派からみれば、重要な一翼ではあっても、そこに党を代行させることはできません。全学連は「大衆闘争機関」であり、学生運動を革命党派の「下部組織」のように位置づけるあり方は、ますます全学連執行部や自治会人事を権力闘争の場にしていったのだと思います。逆にいえば、党派は大衆運動機関の質にとどまっていたともいえると思います。
66年12月、全学連(三派)は再建され、明大社学同の斎藤克彦さんが委員長となりました。このことは明大学費値上げ反対闘争に作用したといえます。すでに「はたちの時代」(「1969年代と私」第一部)の明大学費値上げ反対闘争で書いたように、再建大会から2ケ月もしないうちに、いわゆる「2・2協定」が調印されています。
明大の学費値上げを、学生代表らとの合意を破り、理事会が一方的に学生へのダイレクトメールで通知するという事件が66年12月に発覚した後の闘いです。学費値上げの必要性を問い、学問の充実や「自治」をめぐる問題とあわせて、1月から話合いが続いていました。学費値上げ以外の方法を学生側は問い、理事会に誠意を求め続けました。理事会側は66年12月15日の正式表明まで、のらりくらりと「値上げをする」という確答を避けていました。しかし理事会側もそれまでは一時期値上げすることを迷っていたし、また、進歩派といわれた学長小出康二さんは「値上げ撤回を考えてはどうか」と、宮崎学生部長(当時)に相談したりしていました。66年には「値上げ凍結」で話合う機会もあったかもしれません。しかし67年1月には、すでに値上げが示された上で話合いが続いていました。そして1月30日、機動隊が導入され、理事会はこれまでの妥協をも撤回しています。全学連委員長を引き受けたばかりの、明大社学同のリーダーたちは、学長名による1月30日付学費値上げ反対の昼間部と夜間部の闘争機関の「解散命令」後にも、何とか収拾しようとあせったのでしょう。

(1967.1.30明大機動隊導入)
全学連の中で、ブントとしての勝利的成果をつくりたかったのかもしれません。2月になれば、入学試験が強行され、大学自治は再び警察権力の介入で壊されてしまい、処分者を出さざるをえない現実も予測されていました。当時、体育会右翼の激しい攻撃で、学生大会を開くことも、収拾案を民主的に決議採択することも、難しかったかもしれません。しかし、他の方法はとれなかったのでしょうか?2月1日の明大社学同会議では「理事会との手打ちに反対」して「継続討議」を決定して散会したのですが、リーダーたちは、その足でホテルに向かい、理事会と協定に調印しました。これは社学同仲間にも、学生たちにも裏切り行為でした。「2・2協定」の覚書よりも、ほんの少しましな「明大改革案」を理事会側が提出し、「叩き台」として話し合っていたのは、1月29日から30日の明け方のことです。学費値上げの白紙撤回には程遠くとも、力関係の結果がそこに一定の改革として示されていました。その「叩き台」をふまえて、昼間に明治大学構内で調印と記者会見を公明正大に行ったなら、もっと違った展開になったでしょう。大学での調印はできたはずで、「暁の妥結」といった「煽情的」なニュースとして社会に伝えられることはなかったでしょう。調印責任者の大内学生会委員長は、「2・2協定」合意後に、まず学内に戻り学生に説明するつもりだったようですが、順序が逆だったのです。まず中執会議を行い、学生大会に臨み、全学生の決議機関の採決を経て当局と交渉に入るという順序の逆、理事会側とスケジュールを決めて調印し、その後、それを既成事実として社学同仲間から合意を取り付けるつもりだったのでしょう。しかし、この「2・2協定調印」は他党派ばかりか、まだ統一再建して間もない社学同の他の大学の仲間たちからも怒りを買いました。中核派は、明大昼間部学生会室に殴り込みをかけて、直接当事者ではなく、むしろ批判者であった人たちに「お前は社学同だ、自己批判しろ!」とリンチしては「自己批判書を書け」と迫っていきました。こうした暴力沙汰の危機と、「2・2協定」白紙撤回求める声明が、あちこちの明大の学部執行委員会から表明されました。当の合意した当事者たちは大学に近づけなくなってしまったせいか、行方が知れません。

(2・2協定)
和泉校舎は、やはり社学同系が執行部でしたが、2月1日の社学同会議では「妥結」に反対していた人たちです。彼らは学生集会をただちに開き、「ボス交の2・2協定は無効だ」と宣言しました。全学闘争委員長であり、学生会中央執行委員長である大内さんは、工学部生田校舎の方にいるらしいのです。大内さんは、明大新聞に次のように述べました。「これは(「2・2協定」のこと)現実の力関係の上での休戦であり、次のステップのための妥協である」と。しかし、和泉校舎にも神田駿河台校舎にも公然と戻って説明できる条件は失われています。ブント自身も再建されて間のない寄せ集め的で、一枚岩でもありません。ブント内の元「社学同統一派」が全学連委員長斉藤克彦さんらが属していたグループだったので、ブント内からも斉藤一派追及が続いていました。この件で、ブントは再建全学連斉藤委員長追放と、中核派の秋山勝行委員長代行という事態を認めざるを得なくなりました。その分、中核派もブントも「非妥協主義」が以降、前面に主張されていくようになったと思います。また、この件で「自己批判」を迫られたブントも「ボス交斎藤一派路線」を否定し、中核派と競うように、政治的「妥結」や、大学当局との「合意」を否定し、「革命における改良闘争」をとらえる観点を棄てたように思います。これまでの大学当局との改良・改善の話合いではなく、「白紙撤回」を断固求める道へと進むことになりました。それは後に「革命的敗北主義」として路線化されていきます。

(2・2協定反対のビラ)
今からふり返ると、明大学費闘争は2つの点で「学生運動の岐路」に立っていたように思います。一つは、個別大学自治会の活動における改良闘争を否定する方向に一歩も二歩も踏みだしたことです。もちろん、全学生を結集し白紙撤回を求める闘いの勝利もありえます。66年の明大の学費闘争での可能性や、68年2月、中央大学の学費値上げ反対闘争は白紙撤回を実現しています。それは、現場の指導部が主体性をもって、よその介入をはねのける力関係や、当局側の考えも作用しています。学内自治を守り、あくまでも警察機動隊権力の介入を許さない大学当局もありました。勝利かゼロか(実際にはゼロ以下)という闘い方の他に、改良闘争も条件闘争として位置づけて闘う余地は、まだ当時はあったと思います。それらを否定する方向に導いたのは、党派の介入の否定的な動きです。「ボス交」の2・2協定にみられた「決定の独占」にも、また、以降の「白紙撤回」一辺倒の闘いのあり方にも、党派的な利害に自治会の活動が制約されていったといえると思います。
もう一つの点は、「ポツダム自治会」の否定という名の「非民主」の常態化についてです。明大学生運動は、ずっと、クラス代議員による決定に基づいて学生大会を学生の最高意思決定機関として、自治会は運営されてきました。私たちが夜間部学苑会を民青系から奪取したのもまた、学生大会の多数派形成をもって行われてきました。多数派形成は、学生の要求と向き合わなければならず、常に足かせのように執行部の党派的飛躍や、それら一辺倒の志向を問う作用がありました。「ポツダム自治会は形がい化した民主主義だ」と批判されながらも、クラス討論を行うための「総学生の意志」を無視しえない規律がありました。明大においても、早大や慶大同様に、自治会組織とは別個に闘争機関を結成して闘ったのですが、学生大会ルールを大切にしていたと思います。学生大会は、直接民主主義ではないけれど、全学生に向けて開かれた論争があり、民青系と激しく論じつつ、その中で多数派形成し、方針が決着していきました。全学連再建時の基本路線にも示されたように、自治会を基盤に、自治会と別個に「闘争機関」を作って闘うことを奨励していました。この思惑は、二重性を持つことで、自治会をつぶそうとする権力の攻撃に対して「闘争組織」が責任を負う構造をつくる防衛的意味と、自治会の制約をとっぱらって、または自治会権力を掌握できなくとも、より先鋭化して闘う攻撃的意味が含まれていたと思います。早大闘争の時にも明大闘争でも、「ポツダム自治会批判」とともに「闘争機関」を結成して闘う方式が広がっていきました。それは後の「全共闘運動」へと時代を拓き、学生運動の広がりと全国化をつくり出していく方法となりました。
そこには、闘う意思のある者が直接民主主義形態で闘う良さがありました。同時に否定面としては、全学を代表する自治会の学生大会決議などが軽視されるようになっていったのではないかととらえ返します。そして、逆に党派の意志が深く運動を支配する構造になったのではないかと思います。量的な学生の同意がなければ、政治的突出が許されないと、当時の日共のようなことをいっているわけではなく、党派と学生指導部の側に、その「制約」の自覚と方法が欠けていたことこそ問題としてとらえています。明大についていえば、私の知るこの67年から69年の闘いにおいては、大学の自治会・学生大会を第一義とする闘い方をゆるがせにはしなかったと思います。しかし、明大闘争後「2・2協定」後は、「非妥協」が闘いの「モラル」となり、以降も引くべき時に引けない新左翼学生運動の、良くも悪くもラジカルな闘い方を拡大していくことになったと思います。私自身がそうであったように、闘いの渦中にあっては「妥協」が不純で「裏切り」に見えてしまうのです。
67年明大学費闘争のあとには、国際基督教大、法政大、佐賀大、東洋大など、全学連再建とともに闘いは多くの大学へと波及していました。そして、バリケードストライキに対して機動隊導入、全面衝突が続き、渾身を賭した学生たちの砦は、次から次へと破壊されていました。明大闘争で闘い切れなかった個別闘争の「改良と革命」や、党派のあり方は問われないまま、街頭政治闘争、運動戦の拡大は、「非妥協」を最良の闘いとして突き進んでいきます。2・2協定を経て中核派は「右翼体育会・ガードマンから、はては国家権力を使って暴力的に身構えた学校当局の最後的拠り所をつき崩す闘いは、唯一、学生の大衆的な実力闘争の展開であり(中略)闘いそのものをより目的化し、自覚化され、目的意識と自覚によって武装された闘いが明大闘争にもちこまれること」を求め、ブントは「大衆自らの闘争ヘゲモニーによる実力抵抗部隊こそ、来るべき階級決戦をプロレタリア革命に転化する主要部隊に発展するであろう」と述べています。実力による「徹底抗戦路線」は、明大学費闘争の「教訓」として67年の流れを中核派のイニシアチブ中心に形成されようとしていました。
もう一つの点は、「ポツダム自治会」の否定という名の「非民主」の常態化についてです。明大学生運動は、ずっと、クラス代議員による決定に基づいて学生大会を学生の最高意思決定機関として、自治会は運営されてきました。私たちが夜間部学苑会を民青系から奪取したのもまた、学生大会の多数派形成をもって行われてきました。多数派形成は、学生の要求と向き合わなければならず、常に足かせのように執行部の党派的飛躍や、それら一辺倒の志向を問う作用がありました。「ポツダム自治会は形がい化した民主主義だ」と批判されながらも、クラス討論を行うための「総学生の意志」を無視しえない規律がありました。明大においても、早大や慶大同様に、自治会組織とは別個に闘争機関を結成して闘ったのですが、学生大会ルールを大切にしていたと思います。学生大会は、直接民主主義ではないけれど、全学生に向けて開かれた論争があり、民青系と激しく論じつつ、その中で多数派形成し、方針が決着していきました。全学連再建時の基本路線にも示されたように、自治会を基盤に、自治会と別個に「闘争機関」を作って闘うことを奨励していました。この思惑は、二重性を持つことで、自治会をつぶそうとする権力の攻撃に対して「闘争組織」が責任を負う構造をつくる防衛的意味と、自治会の制約をとっぱらって、または自治会権力を掌握できなくとも、より先鋭化して闘う攻撃的意味が含まれていたと思います。早大闘争の時にも明大闘争でも、「ポツダム自治会批判」とともに「闘争機関」を結成して闘う方式が広がっていきました。それは後の「全共闘運動」へと時代を拓き、学生運動の広がりと全国化をつくり出していく方法となりました。
そこには、闘う意思のある者が直接民主主義形態で闘う良さがありました。同時に否定面としては、全学を代表する自治会の学生大会決議などが軽視されるようになっていったのではないかととらえ返します。そして、逆に党派の意志が深く運動を支配する構造になったのではないかと思います。量的な学生の同意がなければ、政治的突出が許されないと、当時の日共のようなことをいっているわけではなく、党派と学生指導部の側に、その「制約」の自覚と方法が欠けていたことこそ問題としてとらえています。明大についていえば、私の知るこの67年から69年の闘いにおいては、大学の自治会・学生大会を第一義とする闘い方をゆるがせにはしなかったと思います。しかし、明大闘争後「2・2協定」後は、「非妥協」が闘いの「モラル」となり、以降も引くべき時に引けない新左翼学生運動の、良くも悪くもラジカルな闘い方を拡大していくことになったと思います。私自身がそうであったように、闘いの渦中にあっては「妥協」が不純で「裏切り」に見えてしまうのです。
67年明大学費闘争のあとには、国際基督教大、法政大、佐賀大、東洋大など、全学連再建とともに闘いは多くの大学へと波及していました。そして、バリケードストライキに対して機動隊導入、全面衝突が続き、渾身を賭した学生たちの砦は、次から次へと破壊されていました。明大闘争で闘い切れなかった個別闘争の「改良と革命」や、党派のあり方は問われないまま、街頭政治闘争、運動戦の拡大は、「非妥協」を最良の闘いとして突き進んでいきます。2・2協定を経て中核派は「右翼体育会・ガードマンから、はては国家権力を使って暴力的に身構えた学校当局の最後的拠り所をつき崩す闘いは、唯一、学生の大衆的な実力闘争の展開であり(中略)闘いそのものをより目的化し、自覚化され、目的意識と自覚によって武装された闘いが明大闘争にもちこまれること」を求め、ブントは「大衆自らの闘争ヘゲモニーによる実力抵抗部隊こそ、来るべき階級決戦をプロレタリア革命に転化する主要部隊に発展するであろう」と述べています。実力による「徹底抗戦路線」は、明大学費闘争の「教訓」として67年の流れを中核派のイニシアチブ中心に形成されようとしていました。
3.明大学費闘争から再生へ(大学内の闘い)
明大学費闘争は、すでに述べたように、理事会と昼間部学生会の「合意」に近づいた67年1月29日、徹夜団交中の1月30日早朝の機動隊導入、バリケード解除と「ロックアウト」となり、昼間部全学闘争委員会と、全二部共闘会議の「解散命令」が学長名で発令されてしまいました。昼間部社学同側は、29日、合意ぎりぎりまでこぎつけたのに、ML派と中核派による「白紙撤回要求」と「徹底抗戦」の他大学の動員に、大学院の団交会場が包囲され、「機動隊導入」という事態に至ったという思いが強かったようです。昼間部中執としては、責任ある形で決着させたいと主観的には思ったのでしょう。それが、入試実行と引き換えに奪われた堡塁をとりもどす突破口として、理事会側とのかけひきから「2・2協定」という過ちへと至ったのでしょう。
その結果、大学当局と一体化した体育会の暴力パトロールは強化され、大学はロックアウトされ、学館にも一時近づきにくい状態に陥りました。ML派らは法政に、また、社学同系は中大学館を拠点に対策を練っていました。ちょうど、「2・2協定」後の2月11日は初めての「建国記念日」となる日で、雪が降り続いていました。「神話を建国の日とするのは、再び戦前への復活だ」と、当時、建国記念日制定に反対していたのですが、2・2協定で私たちはそれどころではなくなっていました。降りしきる雪の中、黒い学生服の一団が日の丸を掲げた行進をしてきたので、私たちの友人もデモを組み、雪つぶてを日の丸の一団に向かって投げたりしていました。
「2・2協定」に反対を表明していた和泉校舎の執行部と、全二部共闘会議は、「入試阻止闘争」を宣言しました。ロックアウトで体育会系の「防衛団」のうろつく神田駿河台校舎周辺で、ゲリラ的にビラまきを繰り返しました。全学連もそれを支援しています。そして、2月20日、明大入学試験当日、全学連の入試阻止闘争の呼びかけで、御茶ノ水駅一帯は騒然となりました。300人以上が御茶ノ水駅に結集し、明大前通り側の西口改札口前ホールでスクラムを組み、横5列くらいの隊列を組んで渦巻デモを繰り返して座り込みました。駅のホ-ムでは乗客があふれ、ホームから落ちたり大混乱となって国電は電車の運行を停止しました。改札口ホール前では、「2・2協定」を批判した社学同の全学連副委員長成島忠夫さんや、全二部共闘会議のリーダーたちがアジテーションを繰り返して、入試阻止を訴え続けます。国電側は機動隊出動による実力排除を要請し、成島さんらリーダーの何人も逮捕され、駅の構外へと押し出されてしまいました。
そのため、東京医科歯科大学構内に再結集し、工事用の丸太を持った学生を先頭にして、明大駿河台通りのデモ行進を続けました。御茶ノ水駅前などで機動隊とはげしく衝突しましたが、この日、2月20日、結局入学試験は強行されました。そして、この日の入試阻止闘争のデモをピークに、学費値上げ反対闘争は封じ込められていきます。一方、「2・2協定」の当事者であった明大理事会と学生会中執は、3月28日と31日に駿河台本校の第二会議室で、「2・2協定」に基づく話合いが行われました。明大新聞によると、「28日午前10時から法人側からは長野理事長、武田総長、小出学長ら常勤理事が出席、学生会側も大内委員長ら10名が出席した」。この日、学生会中執から3月25日付で法人理事会へ提出された意見書の趣旨説明が行われたという。31日には、中執に対する理事会の見解が述べられて、4月13日に理事会と中執の共同声明を発表することを相互に確認したということです。大内委員長は、「意見書は団交の継続として行ったものである。この中で問題点を惹起し、その基本が認められれば、細部については今後団交によって話を進めたい」と明大新聞に述べています。
当時、二部の学苑会は臨時学苑会学生大会を3月24日に駿河台本校の91番教室で開催し、「学費値上げ反対・白紙撤回」を求める大会決議をめざしました。
法学部と商学部の学部自治会を握っている民青系の執行部は、昨年、学苑会中執を追われたこともあって、この臨時大会をボイコットによって流会させようと企てました。そのため、代議員の出席過半数入場が遅れ、6時開始はようやく7時半を過ぎて大会を成立させて、「2・2協定破棄」を正式に決定しました。その結果、昼間部の学生会中執は「2・2協定」に基づいた改善要求闘争に入り、夜間部学苑会中執は、「学費値上げ白紙撤回」というこれまで通りの路線を進むことになりました。
法人理事会と学生会は、4月14日、確認文章「基本方針決定」がとりかわされました。4月28日、大内委員長は記者会見でそれを明らかにしました。明大理事会は、一段落したとして「人心一新」名で理事会を総辞職し、学生を十数人処分することを表明したのです。
その流れに呼応するように、5月初めになると大内委員長は「経済的理由」をもって「休学届」を提出してしまいました。何とか形をつけるまでと踏ん張っていたのでしょう。本人の気持ちはどうあれ、無責任なあり方を露呈し、大学側に利用されて終わりという状態でした。学苑会は「2・2協定破棄・不当処分反対闘争」を決定し、4月23日に理事会に対して団体交渉を要求することを決定しました。そして、酒田委員長は記者会見を開き、6月末に無期限授業放棄、9月末には再度ストライキ態勢をとると発表し、長野理事長の「人心一新」理由の辞任や、学生処分も許さないと表明しました。「2・2協定」に反対する一部二部合同討論会を開き、5月23日には理事会との団交を要求することを確認し、大学側に学生組織の解散命令を出したことに抗議文を出すと同時に、大内委員長に自己批判を求める要求書を送ることを決めています。「この闘争は長引くと思うが、1年続こうが2年続こうが、あくまでも白紙撤回運動を推進していく」と表明しつつ、学生側には厳しい前途が予想されていました。長野理事長は「学生処分後に辞任したい」と述べたことがわかりまた、教授会も動き出しました。
このように「2・2協定」以降、明大学生運動は、不統一な方針のままでした。大内委員長は、大学当局側にだけ「責任を果たすつもり」で、学生を放り出したまま、突如「休学届」に及んだのです。大内中執執行委員長に対する批判は当然であり、学生会は立て直しが急務となっていました。中核派やML派から批判されてきた「2・2協定」以降の明大社学同は、自己批判しつつ、沈滞・消耗の中からも、とにかく学生に対する責任として、再び学費値上げ反対を闘う態勢に立とうとしている状態でした。これらの人々は、中核派のリンチを受けながらも、黙々と立看を書き、カッティング、スッティングという鉄筆によるガリ版のビラを作りながら、新入生歓迎集会を準備していました。こうした社学同再建をめざす人々に同情して、私も社学同に参加していくことになるのは、この2月から3月頃であったと思います。
そして、これまで明大二部になかった社学同の拠点を作り出していくことになります。その場として、現代思想研究会(現思研)という同好会サークルを始めることにしました。それは後に述べます。昼間部では、新入生歓迎準備を担ってきた者たちが、大内委員長の休学届によって矢面に立たされ、批判をうけつつ、大内批判をしながら中執体勢維持が問われました。駿河台、和泉、生田という三つの校舎の定員24名の中執メンバーによる新体制づくりに対し、大内委員長の出身学部である生田校舎は出席しなかったため、流会となるなど学生会中執内で対立が生まれていました。「2・2協定」まで、全学的に掌握してきた明大ブント・社学同の内部で、「2・2協定」はやむを得なかったと肯定する立場と、大衆的民主的な学生大会などの正式な手続きを経ていないので否定されるべきだという立場の違いがあったのです。生田校舎のボイコットによって、中執は流会をくり返しましたが、新入生も入学し、学内が正常化されつつあり、また、全学連による砂川現地闘争などの運動も問われていました。明大学生会は全学連の重要な動員の一翼を占めてきたし、新しい政治闘争に参加していくためには、学生会自身が態勢を整える必要がありました。
明大学費闘争は、すでに述べたように、理事会と昼間部学生会の「合意」に近づいた67年1月29日、徹夜団交中の1月30日早朝の機動隊導入、バリケード解除と「ロックアウト」となり、昼間部全学闘争委員会と、全二部共闘会議の「解散命令」が学長名で発令されてしまいました。昼間部社学同側は、29日、合意ぎりぎりまでこぎつけたのに、ML派と中核派による「白紙撤回要求」と「徹底抗戦」の他大学の動員に、大学院の団交会場が包囲され、「機動隊導入」という事態に至ったという思いが強かったようです。昼間部中執としては、責任ある形で決着させたいと主観的には思ったのでしょう。それが、入試実行と引き換えに奪われた堡塁をとりもどす突破口として、理事会側とのかけひきから「2・2協定」という過ちへと至ったのでしょう。
その結果、大学当局と一体化した体育会の暴力パトロールは強化され、大学はロックアウトされ、学館にも一時近づきにくい状態に陥りました。ML派らは法政に、また、社学同系は中大学館を拠点に対策を練っていました。ちょうど、「2・2協定」後の2月11日は初めての「建国記念日」となる日で、雪が降り続いていました。「神話を建国の日とするのは、再び戦前への復活だ」と、当時、建国記念日制定に反対していたのですが、2・2協定で私たちはそれどころではなくなっていました。降りしきる雪の中、黒い学生服の一団が日の丸を掲げた行進をしてきたので、私たちの友人もデモを組み、雪つぶてを日の丸の一団に向かって投げたりしていました。
「2・2協定」に反対を表明していた和泉校舎の執行部と、全二部共闘会議は、「入試阻止闘争」を宣言しました。ロックアウトで体育会系の「防衛団」のうろつく神田駿河台校舎周辺で、ゲリラ的にビラまきを繰り返しました。全学連もそれを支援しています。そして、2月20日、明大入学試験当日、全学連の入試阻止闘争の呼びかけで、御茶ノ水駅一帯は騒然となりました。300人以上が御茶ノ水駅に結集し、明大前通り側の西口改札口前ホールでスクラムを組み、横5列くらいの隊列を組んで渦巻デモを繰り返して座り込みました。駅のホ-ムでは乗客があふれ、ホームから落ちたり大混乱となって国電は電車の運行を停止しました。改札口ホール前では、「2・2協定」を批判した社学同の全学連副委員長成島忠夫さんや、全二部共闘会議のリーダーたちがアジテーションを繰り返して、入試阻止を訴え続けます。国電側は機動隊出動による実力排除を要請し、成島さんらリーダーの何人も逮捕され、駅の構外へと押し出されてしまいました。
そのため、東京医科歯科大学構内に再結集し、工事用の丸太を持った学生を先頭にして、明大駿河台通りのデモ行進を続けました。御茶ノ水駅前などで機動隊とはげしく衝突しましたが、この日、2月20日、結局入学試験は強行されました。そして、この日の入試阻止闘争のデモをピークに、学費値上げ反対闘争は封じ込められていきます。一方、「2・2協定」の当事者であった明大理事会と学生会中執は、3月28日と31日に駿河台本校の第二会議室で、「2・2協定」に基づく話合いが行われました。明大新聞によると、「28日午前10時から法人側からは長野理事長、武田総長、小出学長ら常勤理事が出席、学生会側も大内委員長ら10名が出席した」。この日、学生会中執から3月25日付で法人理事会へ提出された意見書の趣旨説明が行われたという。31日には、中執に対する理事会の見解が述べられて、4月13日に理事会と中執の共同声明を発表することを相互に確認したということです。大内委員長は、「意見書は団交の継続として行ったものである。この中で問題点を惹起し、その基本が認められれば、細部については今後団交によって話を進めたい」と明大新聞に述べています。
当時、二部の学苑会は臨時学苑会学生大会を3月24日に駿河台本校の91番教室で開催し、「学費値上げ反対・白紙撤回」を求める大会決議をめざしました。
法学部と商学部の学部自治会を握っている民青系の執行部は、昨年、学苑会中執を追われたこともあって、この臨時大会をボイコットによって流会させようと企てました。そのため、代議員の出席過半数入場が遅れ、6時開始はようやく7時半を過ぎて大会を成立させて、「2・2協定破棄」を正式に決定しました。その結果、昼間部の学生会中執は「2・2協定」に基づいた改善要求闘争に入り、夜間部学苑会中執は、「学費値上げ白紙撤回」というこれまで通りの路線を進むことになりました。
法人理事会と学生会は、4月14日、確認文章「基本方針決定」がとりかわされました。4月28日、大内委員長は記者会見でそれを明らかにしました。明大理事会は、一段落したとして「人心一新」名で理事会を総辞職し、学生を十数人処分することを表明したのです。
その流れに呼応するように、5月初めになると大内委員長は「経済的理由」をもって「休学届」を提出してしまいました。何とか形をつけるまでと踏ん張っていたのでしょう。本人の気持ちはどうあれ、無責任なあり方を露呈し、大学側に利用されて終わりという状態でした。学苑会は「2・2協定破棄・不当処分反対闘争」を決定し、4月23日に理事会に対して団体交渉を要求することを決定しました。そして、酒田委員長は記者会見を開き、6月末に無期限授業放棄、9月末には再度ストライキ態勢をとると発表し、長野理事長の「人心一新」理由の辞任や、学生処分も許さないと表明しました。「2・2協定」に反対する一部二部合同討論会を開き、5月23日には理事会との団交を要求することを確認し、大学側に学生組織の解散命令を出したことに抗議文を出すと同時に、大内委員長に自己批判を求める要求書を送ることを決めています。「この闘争は長引くと思うが、1年続こうが2年続こうが、あくまでも白紙撤回運動を推進していく」と表明しつつ、学生側には厳しい前途が予想されていました。長野理事長は「学生処分後に辞任したい」と述べたことがわかりまた、教授会も動き出しました。
このように「2・2協定」以降、明大学生運動は、不統一な方針のままでした。大内委員長は、大学当局側にだけ「責任を果たすつもり」で、学生を放り出したまま、突如「休学届」に及んだのです。大内中執執行委員長に対する批判は当然であり、学生会は立て直しが急務となっていました。中核派やML派から批判されてきた「2・2協定」以降の明大社学同は、自己批判しつつ、沈滞・消耗の中からも、とにかく学生に対する責任として、再び学費値上げ反対を闘う態勢に立とうとしている状態でした。これらの人々は、中核派のリンチを受けながらも、黙々と立看を書き、カッティング、スッティングという鉄筆によるガリ版のビラを作りながら、新入生歓迎集会を準備していました。こうした社学同再建をめざす人々に同情して、私も社学同に参加していくことになるのは、この2月から3月頃であったと思います。
そして、これまで明大二部になかった社学同の拠点を作り出していくことになります。その場として、現代思想研究会(現思研)という同好会サークルを始めることにしました。それは後に述べます。昼間部では、新入生歓迎準備を担ってきた者たちが、大内委員長の休学届によって矢面に立たされ、批判をうけつつ、大内批判をしながら中執体勢維持が問われました。駿河台、和泉、生田という三つの校舎の定員24名の中執メンバーによる新体制づくりに対し、大内委員長の出身学部である生田校舎は出席しなかったため、流会となるなど学生会中執内で対立が生まれていました。「2・2協定」まで、全学的に掌握してきた明大ブント・社学同の内部で、「2・2協定」はやむを得なかったと肯定する立場と、大衆的民主的な学生大会などの正式な手続きを経ていないので否定されるべきだという立場の違いがあったのです。生田校舎のボイコットによって、中執は流会をくり返しましたが、新入生も入学し、学内が正常化されつつあり、また、全学連による砂川現地闘争などの運動も問われていました。明大学生会は全学連の重要な動員の一翼を占めてきたし、新しい政治闘争に参加していくためには、学生会自身が態勢を整える必要がありました。

(1967.5.16砂川総決起集会)
全学連は、67年5月16日、中大学生会館に350人以上が集まり「砂川基地拡張実力阻止闘争全学連総決起集会」を開いています。中核派の秋山全学連委員長、社学同の成島副委員長らのアピールに応えて、明大からも多くが参加しました。また、すでに長野理事長辞任による「人心一新発言」によって、学費闘争を闘ったリーダーたちを処分することと抱き合わせに行われることが迫っており、学生会中執は早急の体制づくりが情勢的にも問われていました。明大短大学生会も5月25日、「2・2協定破棄」「不当処分反対」を採択しています。また、5月31日、学苑会も定例学生大会を約300人を集めて開催し、「2・2協定破棄」ストライキをめぐる全学投票を決定しました。
6月3日、やっと昼間部学生会中執会議が開かれました。これは小森副委員長が中執開催を再度呼びかけ、大内委員長が小森さんを委員長代行とする旨の委任状を提出して、やっと学生会としての決定機能を回復したためです。「『2・2協定』の是非は、今後討論で決定する」と棚上げし、「自治会として学館運営問題、砂川基地拡張反対闘争、不当処分反対を闘い、再度明大を全国学生運動の再拠点としていく」と確認しました。
全学連は、67年5月16日、中大学生会館に350人以上が集まり「砂川基地拡張実力阻止闘争全学連総決起集会」を開いています。中核派の秋山全学連委員長、社学同の成島副委員長らのアピールに応えて、明大からも多くが参加しました。また、すでに長野理事長辞任による「人心一新発言」によって、学費闘争を闘ったリーダーたちを処分することと抱き合わせに行われることが迫っており、学生会中執は早急の体制づくりが情勢的にも問われていました。明大短大学生会も5月25日、「2・2協定破棄」「不当処分反対」を採択しています。また、5月31日、学苑会も定例学生大会を約300人を集めて開催し、「2・2協定破棄」ストライキをめぐる全学投票を決定しました。
6月3日、やっと昼間部学生会中執会議が開かれました。これは小森副委員長が中執開催を再度呼びかけ、大内委員長が小森さんを委員長代行とする旨の委任状を提出して、やっと学生会としての決定機能を回復したためです。「『2・2協定』の是非は、今後討論で決定する」と棚上げし、「自治会として学館運営問題、砂川基地拡張反対闘争、不当処分反対を闘い、再度明大を全国学生運動の再拠点としていく」と確認しました。

(1967.6.23学費闘争処分発表)
しかし、すぐの6月23日、小出学長名で、退学11名を含む21名の大量処分が発表されてしまいました。明大新聞によると次の通りです。「この処分は、さる昭和41年(1966年)11月、和泉学園封鎖で端を発し、約70日間紛糾した昭和42年度学費値上げをめぐる反対闘争の責任を問われたもので、今回の措置は、昭和37年維持費闘争以来、初の学生処分である。これに対し、学生側は、発表と同時に行われる大学側の記者会見場になだれ込み、小出学長との会見を申し入れた。このため、記者会見は中止された。今後学生側は『処分撤回闘争を組み、ハンストや授業ボイコットに入る態勢を組む』と発表。一方、理事会は、かねての公約通り、7月初旬までには総辞職するものとみられている」と載っています。厳しい退学処分は、小森委員長代行ら、昼間部の闘いの再建をめざしている学生たちに向けられました。また、二部からの退学処分は、酒田全二部共闘会議委員長も含まれていました。「一連の暴挙が、全学闘争委員会ならびに全二部共闘会議の指導によるとの判断から、すでにこの2組織に対して解散を命じたが、今回各学部教授会の会議に基づき、上述の違法行為に組織上の責任を有すると認められた学生に、学則第57条により懲戒処分に付する」と6月23日付明大小出学長名で処分が発表されたのです。
6月17日からは、処分と同じ頃、2月20日の入試阻止抗議行動「御茶ノ水駅事件」で起訴された成島全学連副委員長らの初公判が東京地裁で始まっています。
明大学生会も学苑会も、「処分撤回、学長団交要求」を掲げて激しく抗議行動を始めました。二部では「学費闘争処分撤回」「学長団交」の要求を掲げて大学院前に午前9時から夜10時まで無期限座り込みを6月30日から始めました。
しかし、すぐの6月23日、小出学長名で、退学11名を含む21名の大量処分が発表されてしまいました。明大新聞によると次の通りです。「この処分は、さる昭和41年(1966年)11月、和泉学園封鎖で端を発し、約70日間紛糾した昭和42年度学費値上げをめぐる反対闘争の責任を問われたもので、今回の措置は、昭和37年維持費闘争以来、初の学生処分である。これに対し、学生側は、発表と同時に行われる大学側の記者会見場になだれ込み、小出学長との会見を申し入れた。このため、記者会見は中止された。今後学生側は『処分撤回闘争を組み、ハンストや授業ボイコットに入る態勢を組む』と発表。一方、理事会は、かねての公約通り、7月初旬までには総辞職するものとみられている」と載っています。厳しい退学処分は、小森委員長代行ら、昼間部の闘いの再建をめざしている学生たちに向けられました。また、二部からの退学処分は、酒田全二部共闘会議委員長も含まれていました。「一連の暴挙が、全学闘争委員会ならびに全二部共闘会議の指導によるとの判断から、すでにこの2組織に対して解散を命じたが、今回各学部教授会の会議に基づき、上述の違法行為に組織上の責任を有すると認められた学生に、学則第57条により懲戒処分に付する」と6月23日付明大小出学長名で処分が発表されたのです。
6月17日からは、処分と同じ頃、2月20日の入試阻止抗議行動「御茶ノ水駅事件」で起訴された成島全学連副委員長らの初公判が東京地裁で始まっています。
明大学生会も学苑会も、「処分撤回、学長団交要求」を掲げて激しく抗議行動を始めました。二部では「学費闘争処分撤回」「学長団交」の要求を掲げて大学院前に午前9時から夜10時まで無期限座り込みを6月30日から始めました。

(1967.7.7学長宅デモ)
一方、和泉校舎でも「処分撤回・対学長団交」を要求して、退学処分を受けた学生らが、7月3日からハンガーストライキに入りました。そして7月7日、和泉校舎では「処分撤回団交要求」を訴えて、百余名がバスで駿河台へと集まり、学長団交を要求しデモをかけました。その夕方には、また、小出学長宅を包囲すべく、シュプレヒコールで学長宅に向かい、機動隊ともみあい、4人が逮捕されてしまいました。機動隊が待機して学生らを蹴散らしたのです。夜間部も7月に入って、学苑会中執も抗議に授業ボイコットを呼びかけ、全学投票を行うと決定しました。このように、学費値上げに反対した学生指導部に対する大量処分は、ついに学生たちが再び闘う意志を固める状況を作り出していきます。夏休みによって闘争が終息することを狙った大学側の処分であったのですが、共に闘った者たちは、自分は処分されず、共に闘ったリーダーたちが処分されたことで怒りが収まらず、夏休み中も次々と結集し、9月新学期に向けて闘う方針を固めていきました。退学処分を受けた者たちも、引き続き仲間と共に明大自治会活動の中で、その一員として、闘いを続けていきました。昼間部では、退学処分を受けた小森学生会委員長代行に代わり、10・8闘争後、中央執行委員会によって米田新委員長を選出しました。学生会は、ようやく「2・2協定」から転換し、明大社学同、明大学生運動の傷をいやしながら、闘いの体制をつくりあげる方向に向かいました。米田委員長は「とにかく官僚主義といわれる中執は、平和と民主主義の運動のバネにはならない。だからクラス討論の徹底によって、大衆からの反発と乖離を避けていきたい」と、自治会執行部再建の決意を述べています。
このように「2・2協定」にもとづいて、昼間部学生会は「自治」や「大学の民主化」など、話合いの道に踏み出したにもかかわらず、その当事者だった学生は処分され、改革を約束した理事会も総辞職してしまったのです。その結果、大学改革、学館管理運営など、明大当局との今後の交渉の土台と方向はうやむやになり、新学生会執行部も「2・2協定」については新たな方向を求めつつ、すでに、67年のベトナム反戦闘争の盛り上がりからのちの10・8闘争を経つつ、明大当局批判を強めていきました。当局側が、大学改革を示さず、学館管理運営は学生自治のもとに、自主管理は強化されていました。また、学苑会においては学費闘争ストライキをめぐる「全学投票」を行いながら、学苑会中執メンバーが、投票箱を事前にのぞいていたことが、研究部連合会執行部によって、偶然、夜間に目撃され、その有効性を損なったことを学苑会中執が自己批判を表明するという事件も発生しました。次々と新しく生まれる事態への対応、ことに夏休み明けからベトナム反戦運動の全学的な参加、10・8闘争、その後の高揚で「2・2協定」と「不当処分撤回」を掲げながら、有効な闘いを組み得ませんでした。当局側は「処分撤回」を拒否し、退学・停学を受けた者たちの人生を支える力も十分ない分、当事者たち自身に委ねられていくようになっていきました。結局、全学の自治と決定をもって闘いつつ、その敗北の責任は各自に負わされる結果に至ったのです。個別大学の「ポツダム自治会」と呼ばれる与えられた自治の代議制民主主義の数によって決定された闘いの限界を痛感した者も多かったのです。
こうした闘いの挫折を経て、「ポツダム自治会」の民主的多数派形成の闘いと同時に、少数派であっても、直接民主主義によってヘゲモニーをとろうとする全共闘的な闘いの萌芽や、個別大学の闘いから普遍的な政治闘争を党派へと求める方向へ進む者もいました。
そうした時代、三派全学連のけん引するベトナム反戦闘争を中心とする街頭戦へ!という闘いの方向へとエネルギーを注ぎながら、活発な学生運動へと、67年から68年高揚していくことになります。
(つづく)
一方、和泉校舎でも「処分撤回・対学長団交」を要求して、退学処分を受けた学生らが、7月3日からハンガーストライキに入りました。そして7月7日、和泉校舎では「処分撤回団交要求」を訴えて、百余名がバスで駿河台へと集まり、学長団交を要求しデモをかけました。その夕方には、また、小出学長宅を包囲すべく、シュプレヒコールで学長宅に向かい、機動隊ともみあい、4人が逮捕されてしまいました。機動隊が待機して学生らを蹴散らしたのです。夜間部も7月に入って、学苑会中執も抗議に授業ボイコットを呼びかけ、全学投票を行うと決定しました。このように、学費値上げに反対した学生指導部に対する大量処分は、ついに学生たちが再び闘う意志を固める状況を作り出していきます。夏休みによって闘争が終息することを狙った大学側の処分であったのですが、共に闘った者たちは、自分は処分されず、共に闘ったリーダーたちが処分されたことで怒りが収まらず、夏休み中も次々と結集し、9月新学期に向けて闘う方針を固めていきました。退学処分を受けた者たちも、引き続き仲間と共に明大自治会活動の中で、その一員として、闘いを続けていきました。昼間部では、退学処分を受けた小森学生会委員長代行に代わり、10・8闘争後、中央執行委員会によって米田新委員長を選出しました。学生会は、ようやく「2・2協定」から転換し、明大社学同、明大学生運動の傷をいやしながら、闘いの体制をつくりあげる方向に向かいました。米田委員長は「とにかく官僚主義といわれる中執は、平和と民主主義の運動のバネにはならない。だからクラス討論の徹底によって、大衆からの反発と乖離を避けていきたい」と、自治会執行部再建の決意を述べています。
このように「2・2協定」にもとづいて、昼間部学生会は「自治」や「大学の民主化」など、話合いの道に踏み出したにもかかわらず、その当事者だった学生は処分され、改革を約束した理事会も総辞職してしまったのです。その結果、大学改革、学館管理運営など、明大当局との今後の交渉の土台と方向はうやむやになり、新学生会執行部も「2・2協定」については新たな方向を求めつつ、すでに、67年のベトナム反戦闘争の盛り上がりからのちの10・8闘争を経つつ、明大当局批判を強めていきました。当局側が、大学改革を示さず、学館管理運営は学生自治のもとに、自主管理は強化されていました。また、学苑会においては学費闘争ストライキをめぐる「全学投票」を行いながら、学苑会中執メンバーが、投票箱を事前にのぞいていたことが、研究部連合会執行部によって、偶然、夜間に目撃され、その有効性を損なったことを学苑会中執が自己批判を表明するという事件も発生しました。次々と新しく生まれる事態への対応、ことに夏休み明けからベトナム反戦運動の全学的な参加、10・8闘争、その後の高揚で「2・2協定」と「不当処分撤回」を掲げながら、有効な闘いを組み得ませんでした。当局側は「処分撤回」を拒否し、退学・停学を受けた者たちの人生を支える力も十分ない分、当事者たち自身に委ねられていくようになっていきました。結局、全学の自治と決定をもって闘いつつ、その敗北の責任は各自に負わされる結果に至ったのです。個別大学の「ポツダム自治会」と呼ばれる与えられた自治の代議制民主主義の数によって決定された闘いの限界を痛感した者も多かったのです。
こうした闘いの挫折を経て、「ポツダム自治会」の民主的多数派形成の闘いと同時に、少数派であっても、直接民主主義によってヘゲモニーをとろうとする全共闘的な闘いの萌芽や、個別大学の闘いから普遍的な政治闘争を党派へと求める方向へ進む者もいました。
そうした時代、三派全学連のけん引するベトナム反戦闘争を中心とする街頭戦へ!という闘いの方向へとエネルギーを注ぎながら、活発な学生運動へと、67年から68年高揚していくことになります。
(つづく)
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次回は1月25日(金)に更新予定です。
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