8月11日(祝)、ドキュメンタリー映画「三里塚に生きる」の代島治彦監督が製作中の新作映画「三里塚のイカロス」ダイジェスト版無料上映会があるということで、参加してきた。
このイベントは、前日の8月10日に毎日新聞と朝日新聞にも記事が掲載されたのでご存知の方もいると思う。
当日のプログラムは以下のとおり。

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長編ドキュメンタリー映画「三里塚のイカロス」製作費支援
◉クラウドファンディング後半戦キックオフ・イベントのご案内
『三里塚に生きる』全編+新作『三里塚のイカロス』ダイジェスト版上映会 and トークショー(入場無料)
日時:8月11日(木・祝日【山の日】)13:10開場/13:30開映
   13:30から『三里塚に生きる』上映 
   16:00から『三里塚のイカロス』ダイジェスト版上映
   ★上映後にトークショー
   「シニア左翼とSEALDs、それぞれのレジスタンス」
出演:小林哲夫
   (朝日新書『シニア左翼とは何か』著者)
   西原孝至
   (映画『わたしの自由について〜SEALDs2015〜』監督)
   代島治彦
   (『三里塚に生きる』『三里塚のイカロス』監督)
会場:日比谷図書文化館コンベンションホール
   千代田区日比谷公園1番4号

今回のイベントは、代島監督の新作映画「三里塚のイカロス」の製作費支援のためのイベントである。現在、クラウドファンデで製作費を集めているが、まだ目標額には届いていない。そのため、支援を加速・拡大することを目的に企画されたとのこと。
代島監督には昨年の8月に明大土曜会に来ていただき、「三里塚に生きる」の上映ととともにお話しを伺った。そんなこともあり、私も上映会前に少額ではあるが寄付させていただいた。
クラウドファンディングで寄付をするのは初めてだったが、思ったより簡単にできた。メールアドレスなどを登録し、その後、寄付金額を選び、支払い方法を決める。クレジットカード払いや銀行口座振り込みが一般的であるが、「三里塚のイカロス」の場合はコンビニ払いもあったので、それを選択してみた。
住所や名前など必要事項を入力し、払い込み先コンビニを指定する。すると企業コードと注文番号がメールで送られてくる。最寄りのコンビニに行って専用の端末に企業コードと注文番号を入力すると、レシートが出てくるので、それと寄付金をレジに持っていくと受領書がもらえる。手続きはこれで完了。手数料も取られないのでなかなか便利。

さて、上映会当日は開場時間ちょっと前に日比谷公園に着いた。日比谷図書館を目指して歩いていくと、図書館前の樹の下に人が集まっている。新聞の効果で入場者が並んでいるのかなと思ったら、みなさんスマホを片手にじっと立っている。これは「ポケモンGO」をやっている人たちでした。

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旧都立日比谷図書館。今は千代田区立日比谷図書文化館という名前になっている。


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会場はこの日比谷図書文化館地下のコンベンションホールである。
こじんまりとしたいい会場である。


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会場に入って代島監督にあいさつ。会場の中でトークショーに出る小林哲夫さんを発見して映画が始まるまでしばし雑談。
この会場は定員200名であるが、参加者は50名程度だろうか。お盆の前の休日ということもあり、思ったより参加者は少ない。
映画「三里塚に生きる」の上映の前に代島監督の舞台あいさつがあった。


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映画「三里塚に生きる」は、1年前の明大土曜会で上映したので1回見ているが、その時はビールを飲みながらの鑑賞ということで、じっくりとは観ていない。今回はじっくりと観ることにしよう。


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冒頭、明大生田出身の山﨑さんが出てくる。今も変わらず闘争を続けていることを問われ
「要するに問題は何も解決していないということですね。世の中が変われば、要するに差別とか抑圧とかがなくなれば、当然私も変わるだろうけれども、今の世の中、40年前の学生の頃とね、本質的には何も変わっていないんじゃないかと、だったら私の方でも変わる理由はないということですね。」
と答える。
なるほど・・・。
そんな感じで2時間20分、再鑑賞した。

休憩時間終了後、いよいよ「三里塚のイカロス」ダイジェスト版上映が始まった。冒頭の音楽はフリージャズ。音楽担当は大友良英さん。サックスは坂田明さん、ドラマーは山崎比呂志さん。2人は1971年の三里塚幻野祭にも出演していたらしい。
党派間の内ゲバの話や、管制塔占拠の話が出てくる。顔見知りの人も出てくる。
ダイジェスト版なので上映は10分で終了。来春の公開時には「三里塚に生きる」と同じ程度の長さの映画になるとのこと。
代島監督は、昨年8月の明大土曜会で、この新作映画のことを語ってる。少し長い語りだが、新作の製作意図がよく分かるので見てみよう。

【野次馬雑記No398 映画「三里塚に生きる」を語る 代島監督ロング・トーク より抜粋】
『5.再び三里塚の映画を撮ろうと思った
僕はこの映画を作る時に、三里塚の現地で取材をしたり撮影をしたりしている時に。結構心はしんどかったんです。というのは、ほとんど明るい話ではないじゃないですか。人間がグチャグチャグチャってなっている中をもう一度踏み込んで行く、傷口を無理やり開ける訳ではないんですけれども、人の傷ついたことばかり聞いている訳ですし、結構しんどくて、この1本まとめたらもう三里塚には近づかないのかなと思っていたんですけれども、終わってみたら、柳川さんとか小泉さんとか、ここに出てくる人たちと心が親しくなったんです。あとは、行けるところは全部、上映会場に行って話をするんですけれども、あの時代、これだけ多くの人が三里塚に行ったり関わったり関心を持っていたのかということに改めて驚くんです。
大阪とか京都に行った時も、同志社とか京大とか立命館の人とか、みんな京都シネマということろに映画を観に来てくれて、終わった後、話をしていたら、第一次強制代執行の時にバスツアーみたいにして行ったとか、そういう人が結構いて、女性も多くて、あと、この間、管制塔を占拠したグループの花見に出たんですけれども、その人たちはその人たちで何か持っているとか、いろいろ垣間見ることがあって、支援者、当時そこに入った若い人たちですよね、そういう人たちの三里塚を舞台にした映画ができるかなと思い始めて、今、そのことをいろんな人に会って話を聞いています。

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(写真「三里塚花子の恋」)
まだカメラを回していないし、自分の中でシナリオ、構想ができない。一応、始めようと思ってチラシは作ったんです。『三里塚花子の恋』(仮題)といって、三里塚に行った女性たちということの象徴的なタイトルですが 恋というのは闘争だけじゃなくて、みんなには日常もあっただろう。日常が楽しかったからみんなが行ったんじゃないか。団結小屋なんて、いろいろあったけど、とってもユートピアだったんじゃないか。若い人が何故あの時、三里塚の団結小屋を目指して行ったのか。ある人から言わせると、67年68年69年70年代前半、大学のバリケードの中がある意味、ユートピアだったというか、皆が何かを賭ける場所だった。ところが、それがどんどん潰されていく訳です。
ユートピアは例えですが、そういうものがあって、それがある意味そっくりそのままじゃないけれども、三里塚の団結小屋が一番多かった時期には18くらいありましたよね。セクトの人たちやノンセクトの人たち、いろんな人たちがいましたよね。そういう場所だったんじゃないか。それがたぶん1978年の開港阻止闘争くらいまでは、いろいろゴチャゴチャありながら続いていたんじゃないか、という感じがするんです。
反対同盟が1973年の3月に分裂します。それで中核派が三里塚基軸を打ち出してもう一度巻き返しを図ってテロルとかあります。そこでまた闘いの局面が変わっていって、85年87年の東峰十字路の裁判の執行猶予が出ます。85年も中核派が仕掛けた3・20三里塚交差点の闘争とか、無意味な闘争をやっているんですけれども、そういうところまで引きずっている。その辺の事は、この映画ではスッポリと抜け落ちているんです。それを管制塔占拠の人たちから指摘されたんです。「俺たちがいないじゃないか」と言われても、そういう文脈じゃなかった
確かに三里塚には違う文脈もあるんです。だから、この映画の英語のタイトルは「The Weges of Resistance Narita Stories」ですけれども、抵抗の代償、抵抗した結果受けた代償ということなんです、海外の人は三里塚の地域闘争なんて知らないんです。この間、ニューヨークで上映しましたけれども、ニューヨークでも非常に関心が高くて、映画のレビューもよかったんですけれども、その人たちは抵抗の物語として観るんです。日本の若者もこんな抵抗をして、こんな時代があったのか。日本ってそんな風に見られないですね。レジスタンスなんてないんじゃないか。要するに同化圧力が強いから、常に国民総動員で高度成長でもみんなでがんばるという国だと思われているんです。そういうところでは、すごく新鮮に見られるところがあります。
それで、もう一つの三里塚の文脈としては、農民じゃなくて、当時若者、今はおじいちゃんおばあちゃん、そういう文脈もあるんじゃなないかと思っています。ただ、僕は知らないですから、この前も加瀬勉さんの家に行って5時間くらい喋ってきましたけれども、やっぱり聞かないと分からないです。加瀬さんは加瀬さんの闘争に対する解釈があるんです。加瀬勉の自分なりの冨里から三里塚に移ってきてこうなったという解釈があるんです。それで、加瀬さんが言っていた言葉で僕がジーンときたのは、加瀬さんはボロボロなんです。俺が運動やったために両親が貧乏だった、家も直せなかった、農機具を入れている小屋もつぎはぎだらけ、加瀬さんは自分の代でお終いだと言っている。
この間、島寛征さんに聞いたら、自分たちがやった闘いは自分たちの代で終わらせるくらいの覚悟を決めてやらなと、次の世代の負担になる、ちゃんと継げない。だから俺たちの代で1回終わらせなければいけないんだ。次の代は次の代で始めればいいんだ。だから、前のそういうしがらみとか、決着がつかないことを次の世代までタスキ渡しする必要はない、気持ちだけでいいんだと。、だから、そういうことを聞いていると、モヤモヤしたものがそこいら中にまだあるんです。
管制塔占拠に関わったある人が、今言っていた「七人の侍」、「俺たちは侍だったんだ」という言い方をするんです。「七人の侍」の一番最後に、侍のまとめ役だった志村喬が「勝ったのは俺たちじゃない。百姓だ。」と言うんです。「俺たちはこの地上を舞っている風のようなものだ。土に生きている百姓が勝ったんだ。」と言って映画が終わるんです。ただ、そんなかっこいいものでもないんじゃないかと思うんです。
かっこいいものじゃないんだけれども、絶対にそこには何か大事なものがあって、大事なものを今でも見えなくしている何かモヤモヤしたベールがあるんです。それをやってみたい。加瀬さんと話てみても、誰と話していても、その人のフィルターがかかるんです。この映画もそうですけれども、その人の記憶は、それぞれの思いがかかったものしか言えないじゃないですか。それを10人20人組み合わせた時に、もしかしたらフィルターとフィルターが重なって、あるフィルターが5枚くらいかかったら、そこでスーッと透明になるかもしれないです。そこで、何か事実が浮かび上がるかもしれない。
だから、スーッと最後透明になる瞬間が出てきたら映画になると思うんです。ただ、その透明になる瞬間がまだ見えない。透明になった先に見えているのものは一体何なのかということが、まだ分からないです。「三里塚に生きる」を編集している時も、そういう感じがあったんです。一体、この皆が言いたくない事って何だろう、言いたくない事の先には何があるんだろうと思った時に、三ノ宮文男の遺書だったり、いろいろなものがありますよね。そういうものに行くんですけれども、言いたくないと言われた時に、これは映画にならないかなと思ったんですけれども、皆がそうなっていった時に、これは映画になるかなと思ったんです。そういう中で椿たかさんとか、おっかあたちは結構積極的に喋ったり、あとは三ノ宮文男のかあちゃん(静枝)ですね、かあちゃんがこういう喋りをしたのは、皆初めて聞いているんです。今までは絶対、文男のことは口に出さなかった。ところがこうやって喋った。そういうのが重なっていくうちに、もう40数年前の事ですよね、彼らの気持ちが透明になって見えてくるという感じなんです。
ですから、次回の「三里塚花子の恋」仮題)は侍の方の気持ちをやってみたいと思っていて、侍の中には女性もいるだろうし、三里塚の百姓と結婚して向こうに住んでいる人もいますよね。20数組結婚して、そのうち13組くらい離婚している。この映画の中で柳川さんがシンポジウムの時に言っているですけれども、「1人自殺した。昨日葬式があった。」
それがプロ青(プロレタリア青年同盟)の人で、彼女は移転を苦に自殺してしまうんですけれども、活動家で入った人たちは純粋じゃないですか、やっぱり気持ちがあるから。そういう決断を迫られた時に悩むんです。そういう人に何人も出会ったんです。

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(写真 代島治彦監督)
純粋じゃ生きていけませんよね、不純さも含めないと。そいうことを含めて出てくると思うんです。例えば、今回取り上げなかった青年行動隊の人がいます。その人の奥さんは、三里塚で始めて農家の人と結婚した中核の人なんです。その人も移転する時には1回離婚しているんですね。また戻って結婚していますが、そういうことが事実として今もあるんですね。そういうことを2~3ケ月前からこねくりまわしながら人と会っていまして、最近、中核派の人の本で「革共同政治局の敗北」という本が出ましたよね。水谷さんと岸さんが書いた本ですが、あれを読んだんですが、あの中でも三里塚は利用主義だったという自分たちの総括が出てくるんですね。特に第四インターへのテロを含めて総括しているんだけれども、その具体的なものは出て来ないです。岸さんが「悪かった」と一言書いているだけなんです。そういうことが出てくる時なんですね。』

ダイジェスト版上映後、トークショーが始まった。「シニア左翼とSEALDs、それぞれのレジスタンス」というタイトルで、代島監督と小林哲夫さん、西原孝至さんのトークがあった。この様子は、後日、ブログに掲載予定である。


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◉新作『三里塚のイカロス』製作費支援をお願いするクラウドファンディングをMotionGalleryにて開催中!


【お知らせ】
10・8山﨑博昭プロジェクトでは、2017年1月にベトナム・ホーチミン市のベトナム戦争証跡博物館で「日本のベトナム反戦闘争の記録」展を開催するため、クラウドファンディングを始めました。
今まで、プロジェクトの事業を進めるために、賛同人を募集し、賛同人の方からは賛同金をいただいていますが、この賛同金は、趣意書に書いてあるモニュメントの建立と記念誌発行のためのものであり、新たな企画であるベトナム戦争証跡博物館における展示の費用は含まれていません。
このベトナム戦争証跡博物館での展示にあたっては、資料の翻訳、資料のベトナムへの輸送、展示準備のためのプロジェクト代表者等のベトナムへの渡航費用など、かなりの費用が見込まれます。
そのため、今回、ベトナム戦争証跡博物館での展示のためのクラウドファンディングを始めたものです。
 クラウドファンディングの詳細は下記のアドレスからご覧いただくとともに、是非とも多くの方のご協力をお願いいたします。

【クラウドファンディングのページへGO!!】


ご協力をいただいた方には、お礼として、発起人である山本義隆氏の著書「私の1960年代」(要望に応じて自筆サイン入りも可)などを用意しています。