野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

タグ:ノンフィクション、エッセイ

このブログでは、重信房子さんを支える会発行の「オリーブの樹」に掲載された日誌(独居より)や、差し入れされた本への感想(書評)を掲載している。
今回は、差入れされた本の中から「ガザに地下鉄が走る日」の感想(書評)を掲載する。
(掲載にあたっては重信さんの了解を得ています。)

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【「ガザに地下鉄が走る日」(みすず書房)】
岡真理著「ガザに地下鉄が走る日」を読みました。
この本はイスラエルにとって武装作戦で攻撃されるより脅威に違いない、と思いつつ読みました。パレスチナの西岸地区やガザでイスラエル軍によってパレスチナ人が銃弾や空爆で殺されるニュースは日本でも時々伝えられます。でも日本に住む人々にとっては同情を寄せても遠い存在でしかありません。この「時々伝えられる」パレスチナとは、どんな現実なのか?人々はどう暮らしているのか?実は「時々」ではなく、日常生活のすべてイスラエルの欺瞞的で野蛮な介入と弾圧の中にあること、その数々の姿……。それらを一人の研究者として思索しつつ、旺盛な好奇心を持つパレスチナ人の伴走者としてすごした日々の行動の記録が凝縮されているのがこの本です。
著者から読者に提供される経験と思索の数々は、共感を与えずにはおかない筆致で描かれています。どの章も20代だった著者が新しい社会・現実に直面しながら思索し、問題意識を組み立て、更にパレスチナ問題を解明していく40年近い思索の過程がパレスチナの現場の人々との対話と協力を通して生まれる姿が浮かびます。人々に語りかけ鋭く学ぶ姿勢に私は感動すると同時に、自分をふりかえります。私は解放運動の闘いの側、解放組織の側からしか見えなかったことを読み取ることが出来るからです。著者がアラブ・パレスチナの人々と出会い共感し連帯しながら研究提示している記録を私は追体験的に想像しつつ当時を思い、その地名、サブラ・シャティーラ難民キャンプ、ラシーディーエ難民キャンプ、タッル・エルザァタル難民キャンプ、そしてパレスチナ人がよく語る「ワタン」「ヘルウ・フィラスティーン!(すばらしいパレスチナ!)」や言葉に感情移入して胸に郷愁のように熱く迫り、情景が広がります。
第一章から第十四章のうちどの章もいいものです。第二章のガッサン・カナファーニの「太陽の男たち」。第三章「ノーマンの骨」と題されたイスラエルによるナクバ(大破局)虐殺の真実。第四章「存在の耐えられない軽さ」に記された、イスラエルの10年以上の完全封鎖の下「生きながらの死」におかれたガザの人々の告発。第五章「ゲルニカ」が語るサブラ・シャティーラの82年の虐殺、それらは過去ではなく、著者の筆で今につながる日常性として活写されます。また祖国パレスチナに帰ることの出来ないレバノンのパレスチナ人が、著者がパレスチナ、エルサレムにも最近行ったことを知り、思わず声を揃えて「ヘルウ・フィラスティーン?」と聴く第九章の情景。第十二章では「人間性の臨界」と題して、2008年から9年にかけてイスラエルがガザでいかにパレスチナ人を虐殺したのか、この空爆と虐殺に抗して雨の中日本でも扇町公園から約500人の抗議とデモのあったこと、きりなく記したいエピソードにあふれています。どの章も心に響きますが、第一章、第二章そして最終章についてふれておきます。
 第一章「砂漠の辺獄」の中で著者は自らの経験から思索を開始します。著者が22才の夏トルコ・シリア国境を通過した時、陸続きの国境の間にはどちらの国民国家にも属さない「ノーマンズランド(緩衝地帯)」があることをはじめて知ります。この経験は2003年の米軍イラク侵略の戦禍を逃れるためにヨルダンへと向かったパレスチナ人が、他の国籍のある人々と違って、ヨルダン入国を拒否されてノーマンズランドに留め置かれ、難民と化していた衝撃の事実と向き合うことになります。また、イラクからシリアに逃れ同様の境遇に遭うパレスチナ人。更にはシリア内戦の中、レバノン、ヨルダン、トルコの国境地帯ノーマンズランドに滞るしかない人々、欧州へと難民化をもとめ海の藻屑(もくず)となる人々……。人間としての扱いを拒まれた「ノーマン」……。主権を基礎とする「国民国家」の空隙に落ち込んだ人々を著者は凝視する。「彼らは人権とも、彼らを守る法とも無縁だ。『法』も『人権』も、それは『人間(マン)』、すなわち『国民』の特権なのだということ。国民でないものは『人間』ではない、それが、普遍的人権を謳うこの世界が遂行的に表明している紛うことなき事実であり、その事実が──彼らが『国民』でないために『人間』でないという事実、それゆえに人権や人間を護るべき法の埒外の存在であるという事実が──露わになるのが、ここノーマンズランドだ。」もっとも必要とする人々に人権が与えられず、自らの力では越えられない国と国との間に棄ておかれた砂漠の辺獄。「人間と市民の同一性、生まれと国籍の同一性を破断する」難民という人々の住む穿たれた穴の暗黙の虚構の上にこの世界があると著者は見据える。そこから著者は「パレスチナを思考することは、ノーマンとともにこの砂漠の辺獄から世界を思考するということに他ならない。」という視座を得て、国民国家の狭間で生きることを強いられた「ノーマン」の現実をパレスチナの重層的姿としてその視座のもとに最終章の第十四章「ガザに地下鉄が走る日」まで記録しています。
 第二章「太陽の男たち」では、ガッサン・カナファーニーの小説「太陽の男たち」が「国境と難民」について思考するうえで、二十一世紀の今日的問題を既に半世紀以上も前に記したものとして、改めて読まれるべき作品として紹介しています。世界に問題が溢れるとうの昔に、パレスチナの現実がそこに始まっていたことを示しています。この小説を簡単にスケッチすると、イスラエルの民族浄化作戦によって48年パレスチナを追放された3人の男たちの10年目の物語。働き口も無く、パスポートもビザもない3人がクウェートへと職を求めて密入国を試み果たせずに、死を迎えノーマンズランドにうち棄てられていく物語です。クウェート密入国の手段は灼熱の50度にもなるイラクのバスラからクウェートへの空(から)の給水タンクの内に潜んで、国境を通過することです。この運搬を金稼ぎに諒解する運転手もまたパレスチナ人です。イラク国境は越えたのですが、クウェートの検問所でひまつぶしの係員たちのくだらない話の相手をさせられながら、運転手はジリジリしながら入国手続を終えるや、大急ぎで車をノーマンズランドに移動して停車し、タンクの蓋を開けたが、すでに3人は事切れていました。灼熱の7分の辛抱のはずが20分以上を過ぎてしまったのです。運転手は「なぜおまえたちはタンクの壁を叩かなかったんだ。なぜ叫び声をあげなかったんだ。なぜだ。なぜだ。なぜだ。」と繰り返すのです。この悲鳴で物語は終わります。ここに、作者ガッサンの思いが込められています。
その後、エジプト人のタウフィーク・サーレフ監督によって「欺かれし者たち」のタイトルで、この小説が映画になりました。映画の方は、灼熱地獄のタンクの中で、3人は必死にタンクを叩くのです。でも声は届かず、結局絶命し、原作と同じく、骸はノーマンズランドに棄てられます。今回この著書を読みつつ私は、昔のある光景を思い返しました。あれは、71年の12月の終わりか正月72年の冬、私は26歳のころのことです。当時の私は、ボランティアでPFLPの情報センターを手伝っていました。私のボスがPFLPの週刊誌「アル・ハダフ」の編集長で作家のガッサン・カナファーニです。彼から、自分の小説「太陽の男たち」の映画が出来たので試写会をやるから来いよ、と誘われました。どこかの文化センターの一室で、十数人の身内だけの試写会で、丁度日本から遊びに来ていた女友達を連れてきてもいい、というので出掛けました。ほんの内輪の訳は、PFLPハバシュ議長らイスラエルに命を狙われている人々を護る保安上の配慮だとわかりました。ハバシュ議長夫妻と、ガッサンの妻アニーらがいました。映画は、後半小説のストーリーと違って、タンクの内から必死にタンクを叩く画面になったとたん、暗闇の中でガッサンが身じろぎし、制作した監督の方を見ました。監督は緊張している風で、みんなを見回しました。映画が終わると、ガッサンが何かまくしたてて、監督も負けずに捲し立てていました。ハバシュがニコニコして「いい映画だった」と言って席を立ったので、みなハバシュ夫妻を送りつつ、会はお開きになりました。
翌日、ガッサンに事情を聴くと、ガッサンは、原作通りであってほしかったと話していました。タンクを叩いたのに、世界は耳を傾けず、やっぱり死ぬのは希望がないじゃないか、というようなことを語りつつ、アラビック・コーヒーを啜っていた情景が浮かびます。居合わせたイラク人の映画監督は、サーレフは絵になる最後にしたかったんだろう、闘いを示したかったんだろう、と言っていました。その後PFLPの72年5月30日のテルアビブ空港襲撃作戦に対する報復で、72年7月、生き残ったオカモトの軍事裁判直前に、ガッサン・カナファーニは殺されます。今回この本を読んで、この映画が73年制作と記されているのを見て、ガッサンが生きている間に、もしかしてこの映画にゴーサインを出さなかったのかもしれない、と思いました。ただ、ガッサンの同意を得ていて遅れただけかもしれませんが。
アルハダフの大きな机で、大好きなアラブコーヒーを啜るガッサンを思い返しつつ、この第二章を何度も第十四章と共に読み返しました。最終章が本のタイトルともなっている「ガザに地下鉄が走る日」。2018年のナクバから70年目の「帰還の大行進」が語られています。1948年、民族浄化の犠牲者の難民たちが、ガザに19万人を超えてやってきます。当時のガザの人口は8万人強。70年後の現在、ガザの総人口は200万人。そのうち7割の130万人が、ナクバで難民になった人たちとその子孫です。ガザの200万人の「ノーマン」たちが、人間の諸権利と切り離され、「難民キャンプ」というより「強制収容所」と呼ぶ方がふさわしい「ノーマンズランド」の中で、なお帰還を求める大行進の闘いが続いています。殺されても殺されても。パレスチナを占領し、パレスチナ人の帰還を許さないイスラエルは、逆に諸外国のユダヤ系国民を「帰還法」によって、いつも帰還を促し、「国民」の特権を行使させています。このシオニズム批判も著者は鋭い。
そしてまた、2014年3月、封鎖7年目のガザのフランス文化センターを訪れた著者が見たカラフルな絵について、最後に語っています。それはガザの地下鉄の路線図。本物の路線図のように精巧で、著者を釘付けにしました。それが、ガザのアーティスト、ムハンマド・アブ・サルの制作した「ガザの地下鉄」という題の、想像上の地下鉄路線図だったのです。ガザから西岸のエルサレムへ行って、アルアクサー・モスクに祈ることもできるし、西岸の人々は、ガザに来て海水浴することもできる。ガザに地下鉄が走る日、西岸の分離壁もレイシズムもない、かつての入植者や難民たちが、断食明けの食事を共に囲む……。ガザの地下鉄は、まだ訪れない美しい希望を「絶望の山」から「希望の石」を切り出す鑿だと、著者は記します。ガザの帰還を求める叫びに対して、著者は「私たちが、この世界を私たち自身のいかなるワタン(祖国・郷土)として想像し、それを全霊で希求するのか、ということと限りなく同義である」と、本を結んでいます。そして、「あとがき」がまたいい。ガザに示されるパレスチナの真っ暗の闇の中で、もし「私」のために灯が灯されていると知ったら、その灯に向かって人は歩み続けることが出来る、と著者は書いています。「真っ暗の山中の遠く浮かぶ灯に、私たちもまた、なることが出来るのではないか。いや、そうならねばならないだろう。パレスチナに希望があるとしたら、それは私たち自身のことだ」と。そうあり続けたい。何度も眼元を濡らしつつ読み終えた本です。
              (2月21日記)

「ガザに地下鉄が走る日」みすず書房 3,200円(税別)」
(「みすず書房」サイトより)
イスラエル建国とパレスチナ人の難民化から70年。高い分離壁に囲まれたパレスチナ・ガザ地区は「現代の強制収容所」と言われる。そこで生きるとは、いかなることだろうか。
ガザが完全封鎖されてから10年以上が経つ。移動の自由はなく、物資は制限され、ミサイルが日常的に撃ち込まれ、数年おきに大規模な破壊と集団殺戮が繰り返される。そこで行なわれていることは、難民から、人間性をも剥奪しようとする暴力だ。
占領と戦うとは、この人間性の破壊、生きながらの死と戦うことだ。人間らしく生きる可能性をことごとく圧殺する暴力のなかで人間らしく生きること、それがパレスチナ人の根源的な抵抗となる。
それを教えてくれたのが、パレスチナの人びとだった。著者がパレスチナと関わりつづけて40年、絶望的な状況でなお人間的に生きる人びととの出会いを伝える。ガザに地下鉄が走る日まで、その日が少しでも早く訪れるように、私たちがすることは何だろうかと。
目次
第1章 砂漠の辺獄
第2章 太陽の男たち
第3章 ノーマンの骨
第4章 存在の耐えられない軽さ
第5章 ゲルニカ
第6章 蠅の日の記憶
第7章 闇の奥
第8章 パレスチナ人であるということ
第9章 ヘルウ・フィラスティーン?
第10章 パレスチナ人を生きる
第11章 魂の破壊に抗して
第12章 人間性の臨界
第13章 悲しい苺の実る土地
第14章 ガザに地下鉄が走る日
あとがき

著訳者略歴
岡真理  おか・まり
1960年生まれ。京都大学大学院人間・環境学研究科教授。専門は現代アラブ文学、パレスチナ問題、第三世界フェミニズム思想。 著書に『記憶/物語』(岩波書店)、『彼女の「正しい」名前とは何か』、『棗椰子の木陰で』(以上、青土社)、『アラブ、祈りとしての文学』(みすず書房)ほか。訳書にエドワード・サイード『イスラム報道 増補版』(共訳、みすず書房)、サラ・ロイ『ホロコーストからガザへ』(共訳、青土社)、ターハル・ベン=ジェルーン『火によって』(以文社)、アーディラ・ライディ『シャヒード、100の命』(インパクト出版会)、サイード・アブデルワーヒド『ガザ通信』(青土社)ほか。2009年から平和を目指す朗読集団「国境なき朗読者たち」を主宰し、ガザをテーマとする朗読劇の上演活動を続ける。

【重要なお知らせ!】
ヤフーのジオシティズの閉鎖に伴い、「明大全共闘・学館闘争・文連」のホームページを「さくら」レンタルサーバーに引っ越しました。
リンクを張られている方や「お気に入り」に登録されている方は、以下のアドレスへの変更をお願いします。
HP「明大全共闘・学館闘争・文連」
 http://meidai1970.sakura.ne.jp
新左翼党派機関紙・冊子
 http://meidai1970.sakura.ne.jp/kikanshi.html

【お知らせ】
ブログは隔週で更新しています。
次回は7月5日(金)に更新予定です。

このブログでは、重信房子さんを支える会発行の「オリーブの樹」に掲載された日誌(独居より)を紹介しているが、この日誌の中では、差し入れされた本への感想(書評)も「読んだ本」というコーナーに掲載されている。
今回は「オリーブの樹」140号に掲載された本の感想(書評)を紹介する。
(掲載にあたっては重信さんの了解を得ています。)

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【「かつて10・8羽田闘争があった」(10・8山﨑博昭プロジェクト編・合同フォレスト発行)】
「かつて10・8羽田闘争があった」(10・8山崎博昭プロジェクト編・合同フォレスト刊)を読みました。
 この本は、50年前ベトナム侵略戦争に反対し、佐藤首相ベトナム訪問に反対し、立ち上がった若者たちが羽田空港周辺で闘い、その中で虐殺された故山﨑博昭君の追悼と、当時の闘いを明らかにし、歴史に刻むために編まれた書です。
 600ページ以上もあるこの本を10月6日に受け取り、10月9日まで一気に読みました。気持ちとしては一気ですが、物理的には徹夜で読むことができない獄で中断を余儀なくされつつ、一心に読みました。
初めに、博昭君の兄建夫さんが、弟がどんな子供だったのか、どんな家庭の中で育ったのかそして突然の死の衝撃を「あゝ弟よ君を泣く君死にたまふことなかれ」の題名の一文に想いを凝縮して記しています。この家族の思いを通して、当時の闘い、命知らずに使命感に燃えて立ち上がる若者たちと支えつつ案ずる家族の姿が痛いほどわかります。自分の周りの若者たち、ブントや赤軍派の友人たち、また、バーシム奥平、サラーハ安田、ユセフ檜森、ニザール丸岡らが、山﨑君の「死」と連動して浮かび、胸を熱くさせます。
この本はそのあと、第1部から第4部に分けて編まれ、第1部では、このプロジェクトに関わった方々中心に10・8から50年を経ての総括的な感慨が記されています。50年前救援に関わり、このプロジェクトに加わった水戸喜世子さんや山本義隆さんら大手前高校の同志、同期の方々の文です。どの方々も10・8闘争とそこでの山﨑君の「死」がそれ以降の運動の飛躍の出発点であり、またそれぞれの人生に大きな影響を与えずにはおかなかったことを深く語っています。10・8闘争が同世代の人々の結び目であり、それ故再び50年後に共通の思いを持ちえたことが伝わります。
第2部では、67年10月8日闘争に共に参加した山﨑君の学友や戦友たちによる、弁天橋やその付近での攻防を中心に編まれています。日本が再び侵略戦争の道に加担することを許してはならない! と、不退転の当時の騒然とした時代がよみがえります。ここでは、戦友、友人たちが山﨑君がどのような部署について闘ったのか具体的で詳細に語っています。私もこの本に一文を寄せましたが、私の文が記憶違いの不正確さがあると読みつつ思いました。一つは、10・8当日ブントや私たちは、鈴ヶ森ランプ出入り口から高速道路を駆け登ったのですが、私は「逆走した」と書きました。しかし、「出口」でなく「入り口」だったら、「逆走」ではないと。もう一つは、私は高速道路上で、機動隊の「ジェラルミンの盾と金属棒でデモ隊の頭を殴ったり蹴ったりしている」とん書いたのですが、まだジェラルミンの盾は無かったのか? 68年の記憶と混同してしまったのかもしれません。他の方々の具体的手記を読みつつ思いました。それに部隊「数百人」と書きましたが、情報誌では、この時のブント社学同らは、1,200人、1,000人と書いている人もいます。確かめずに書いたため、不確かだったと思います。
第3部は、「同時代を生きて、山﨑博昭君の意志を永遠に」と、様々な立場、年代の方々の視点からの文や10・8のこのプロジェクトに賛成した意志のコメントなど。折原浩論文も収められています。
第4部は、「歪められた真実」。これは圧倒的説得力があります。この第4部の真実から改めて逆に第2部の手記をじっくり詠み直した程です。(第1部にも当時の遺族を代表した小長井弁護士も記しています。)この第4部の「50年目の真相究明――山﨑招博君の死因をめぐって」がそれです。辻恵と10・8プロジェクト事務局が執筆し、調査で到達した地平、事実の再現に向けた詳細な聴き取りと図解説明によって正確に真実が明かされています。当時は、「山﨑は学生の運転した車に轢き殺された」とか「暴徒キャンペーン」が激しかったのを思い出します。検死前から「轢殺説」を流しながら、自供攻勢でも結局つじつまが合わせられず、犯人学生説は失敗だったことも記されています。
また、この文で初めに山﨑君を検死した牧田病院長の発表では、「直接の死因は頭骸底出血と頭骸骨折だがタイヤの跡は認められなかった」と述べたものが変更修正されたり、警察の国会答弁もつじつまが合わないなどを、この中で明らかにしています。
この警察のねつ造の記述との関連で、辻恵は60年安保闘争で殺された樺美智子さんに言及しています。2010年に樺さんの「死の真相」が明かされていたことをこの文で私は初めて知りました。「樺美智子さんの『死の真相』――60年安保の裏で」として、2010年12月公表された。筆者は丸屋博医師。60年6月16日に樺さんの遺体を司法解剖のため慶応大法医学解剖室で、中館教授執刀で行われ、その口述筆記したものを丸屋博が当時の解剖学の著名な権威、草野教授に鑑定してもらうために持参し、そこで死因の説明を受けた。丸屋は自ら樺さんの残されていた臓器を確かめた上で、「樺さんは腹部に(警棒状の)鈍器で強い衝撃を受け、外傷性膵頭部出血、さらに扼痕による窒息で死亡した」という結論をまとめたという。(実際、樺さんと一緒にいた女学生は命はとりとめたが、同様の重致傷で入院。)
検察に提出したこの「第一次鑑定書」を、検察は受け取りを拒絶して書き直しを迫った。それで、執刀医の中館教授は修正を加えて「第二次鑑定書」を作成したが、それでも検察は不都合で使わず、解剖に一部立ち会っただけの東大の上野教授によって別の鑑定書が作られた。そこで、「人なだれによる圧迫死、内臓臓器出血も窒息によるもの」と変更した。そして第二次鑑定書も闇に葬った。このように丸屋博医師によって50年を経て明らかにされた。
闘う側にいた私たちは、詳しい山﨑君の死因は知らずとも「権力の虐殺」であり、怒りと共に次の11月闘争に向かったのです。50年を経て、改めてその詳しい実証に当時のデモで、激しく対峙した権力の殺意をよみがえらせて、身震いしてしまいます。しかも巧妙に権力は真相を葬った。歴史に繰り返されている権力の姿を、反戦平和を求める市民運動の側から露にし、今現在の深まる「共謀罪」「安保法」」「改憲」に立ち向かう一つの力として、この本を多くの方々に読んでもらいたいと思いました。(10月13日)

【お知らせ】
ブログ「野次馬雑記は掲載から10年を迎えました。第1回は2007年12月2日です。当初はヤフーの「ジオログ」に掲載していましたが、「ジオログ」廃止にともない、現在の「ヤフーブログ」に移行しました。
「ジオログ」の時を含めて30万近い方にアクセスしていただきました。ありがとうございました。
もうすぐ掲載回数も500回を迎えます。いつまで続けられるかわかりませんが、もう少し頑張りたいと思っています。今後ともよろしくお願いします。
次回は12月22日(金)に更新予定です。 

先週の重信房子さんの獄中書評の中に、板坂剛氏の著作「三島由紀夫と全共闘の時代」があった。板坂氏は日大全共闘芸術学部闘争委員会で活動されていた方で、現在はフラメンコダンサーであるとともに、作家としても多くの著書がある。
今週は、その板坂氏が5年前の日大闘争40周年にあたり、月刊「紙の爆弾」という雑誌に書いた文章を転載する。
この月刊「紙の爆弾」という雑誌は、鹿砦社(ろくさいしゃ)から出版されており、鹿砦社のホームページによると「毎月7日発売タブーなきラディカルスキャンダルマガジン!芸能から社会問題まで、大手マスコミが書けないすべての真実をタブーなしでお届けします。」ということである。
鹿砦社といえば、1970年頃、「左翼エスエル戦闘史」、「マフノ叛乱軍史 ロシア革命と農民戦争」、「クロンシュタット叛乱」などの本を出版していた。当時、よく読んだ本の出版社である。

今回は、「紙の爆弾」に掲載された「日大闘争四十周年 あるフラメンコダンサーの述懐」と「再び日大闘争四十周年に あるフラメンコダンサーの述懐PARTⅡ」を転載する。
「日大闘争四十周年 あるフラメンコダンサーの述懐」は、日大930の会事務局発行の「930新聞2009年新年号」にも転載されている。

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(「紙の爆弾」表紙)

【日大闘争四十周年 あるフラメンコダンサーの述懐 文 板坂 剛】
 二〇〇八年十一月二十二日、東京・神田の「一ツ橋画廊」に行ってしまった。『1968年全共闘だった時代-日大闘争の記録』を目撃するためである。あの「日大闘争四十周年」ということで、当時の出版状況にもちょっとした衝撃を残した奇書『叛逆のバリケード』がリメイクされ、新版として三一書房から出版される、その出版記念写真展なのだそうだ。
 しかも同様の写真展は新宿や神田の別な場所でも開催されていたという。今時都内三か所で写真展同時開催なんてヨン様並みの人気ではないか、と驚く。○七年七月と十月にNHKのBS2で、日大闘争について好意的に取り上げた番組が放映されて大きな反響を呼び、以来日大闘争再検証熱は、静かに昂まり続けているらしい。
 「一ツ橋画廊」では、何とひと足お先に関西から駆けつけていた鹿砦社の松岡社長が、既に前時代の革命的な空気に酔っていた。つい十数分前にオープニングのセレモニーが行われ、復元された全共闘各学部闘争委員会のヘルメットをかぶったかっての闘士たちが、さながらグループサウンズ再結成、芸能界復帰の記者会見かと思わせる熱気で盛り上がっていたという。
 この写真展で、もう一人知った顔に出会った。日大全共闘の中でも常に過激な行動を取りたがる、と周囲から異端視されていた芸術学部闘争委員会(略称「芸闘委」)の行動隊長として、自他共に認める「単ゲバ」男だった山崎晴久。デモの最先頭に立って機動隊に突っ込んで行く勇姿は、一時期“神田解放区”の名物でもあった。
 彼とは実に四十年ぶりの再会である。申し遅れたが、私も当時は芸闘委の末席を汚し、主要なデモには殆ど参加していた活動家だった。戦闘力という点では、むろん山崎の比ではなかったが・・・

 日大闘争の正当性については、『叛逆のバリケード』以外にも、映画、写真に至るまで他大学には見られない説得力のある記録が残されているので、ここでまた私がくどくどと述べる無駄は除きたい。ひたすら四十年後の今を語るのみである。
 写真展の後は、東大のすぐ近くにある機山館というホテルで行われる「同窓会」にも行ってしまった。この「同窓会」もまた「四十周年記念」ということで、広島に蟄居していた元議長の秋田明大を招いて行なわれると聞けば、全共闘の「同窓会」なんて悪趣昧じやないか、と少なからず抵抗を感じつつも、やっぱり足が勝手に向いて行く。もしかしたら、会場にはヘルメットと角材が用意されていて、飲んで食べてその後は、歩いても十分とはかからない安田講堂まで行くことになるのでは……と、そんな不安と期待を抱きつつ。
 一〇分押しで始まった「同窓会」の冒頭では、主催者より「某テレビ局から取材の申し入れがあったが、会場にカメラを入れることは拒否した」との報告があり、ちょっぴり緊張感が漂う中、松岡社長が高校生だった当時「雲の上の人」と憧れていた秋田明大が登場、野獣の咆哮の如き昔のままのアジテーション風挨拶。
……週刊誌等で時おり。“あの人は今”風の醒めた視点から、悄然とした近況が伝えられていたが、そんなイメージを払拭するようなメッセージが伝えられた。
 日大闘争が「不条理の中で闘われた」と単純明快に総括し、だから「世に不条理が存在する限り」日大全共闘の「不屈の精神」は、語り継がれなくてはならないという爽やかな割り切りが、その声、喋り方から一瞬にして伝わって来る。
 不思議な男である。喋っている内容は決して高度な理解力を要しない。当時、全共闘の内部でも、党派に属していた活動家の多くは秋田を軽視していた。しかしそんな連中でさえ、秋田を議長から降ろそうとは考えもしなかったはずである。それはカリスマと呼ばれる人間の常なのだろうか。
 東大全共闘の議長は自ら東大闘争を『知性の叛乱』というタイトルで表現したが、私が日大闘争をひと言で語れと言われれば、迷わず『感性の叛乱』と答える。論理ではなく、一瞬にして通じ合う感性=血の共鳴が、進むべき道を示し合う。それが日大全共闘だった。そのリーダーに秋田明大以外の人間を想定することは、今も私には出来ない。
 もちろん知性にも感性にも、それぞれの限界がある。が、相方が互いの限界を補完し合えば、理想的な共闘関係が成立する。四十年前の十一月二二日(偶然にもゾロ目の日どり)に実現した東大=日大安田講堂前の連帯集会は、まさにその好例だった。
 写真展も同窓会も、敢えてこの日を選んで行われたのは、そこに賭けた思いが強かったからだろう。同窓会では元東大全共闘のメンバーも出席し、「日大全共闘には大変お世話になりました」と発言、脆弱だった東大のバリケードを堅固に作り直してくれたのは日大生だった。安田講堂での徹底抗戦が二日間も持ちこたえられたのはそのおかげ。また一月初頭の民青との内ゲバでも、日大生の活躍は目ざましかった・・・等々、四十年ぶりの謝礼を述べてくれたが、当時のマスコミはこういう裏事情を殆ど報じていなかった。

 昭和四十四年九月の全国全共闘結成、そして十一月佐藤訪米阻止闘争に連なる学生運動の統一戦線的な高揚が、前年十一月二二日を出発点としていたことは疑う余地もない事実であり、日大全共闘がそこでも大きな役割を演じたことが、現在の日大闘争に対する再検証の気運を盛り上げているのだとしたら、時の流れは案外、人を公平な判断に導くものなのだろうか。BS2と言えどもあのNHKが、好意的に日大闘争を取り上げる日が来るとは、少なくとも私は予想出来なかった。        
 しかし、当初の不安と期待に反して、なごやかな雰囲気のうちに、革命歌インターナショナルの大合唱で同窓会が終わった時、これでいいんだろうかという戸惑いを感じたのはどうしたものだろうか。
 十代の半ばに、地方のある割烹料亭で戦争体験者の宴会を目撃したことがある。そこで♪さーらばラバウルよーと歌う酔った大人たちの姿に吐き気を催した。死者に対して失礼ではないかと。
 今、インターナショナルを歌う我々を見て十代二十代の若者たちは同じ感慨を抱かないだろうか。
 日大闘争の過程でも死者はいた。正直言って私が一度だけグラついたのもその時だった。経済学部に対する強制執行の際に、学生の投石を受けた機動隊員が死んだ。
 新聞に掲載されたその人の顔写真を見た時、それが何とも優しそうな顔立ちだったからだろうか、きっと家庭ではいいパパなのだろう、それほど高齢でもないからには、子供はきっとまだ幼いのだろう、その子は父を殺した学生の暴力をどう思うのだろうか・・・・等々、つい考えてしまった。むろん全共闘の内部では 「責任はすべて学校当局にある」で片づけられた問題である。
 正しいと信じた行為の結果、敵対する者が死に至ったとしても止むを得ないという考え方もある意味男らしいとは思う。が、こうした精神的な強さの末に、連合赤軍の敗北や革共同両派の不毛な内ゲバがあったような気もするのだが・・・・。
 そんな思いを抱きつつ、同窓会の後、本郷から水道橋へ、松岡社長と二人、深夜の暗い坂道を下って行った。眼下に東京ドームが見えた時、歩みを止めて思ったのは、あれ以降水道橋の駅の改札を通ったのは東京ドームにローリングストーンズの公演を観に行く時だけだったこと。やっぱりこの四十年、私の心の中で転がり続けていたのは、ローリングストーンズと日大全共闘だったという結論を象徴するような眺望ではあった。


【再び日大闘争40周年に あるフラメンコダンサーの述懐 PARTⅡ 
文 板坂 剛】)
 日大闘争再検証熱はどうやら本物になって来たようだ。つい先日も日大芸術学部文芸学科の講師という方から「最近、卒論で日大闘争を取り上げる学生もいたりするので、当時の話を聞かせて欲しい」という依頼があって『卒論で日大闘争って! マジッスカ? ……・』こっちが読みたいくらいですよ)、近頃の大学生も棄てたもんじゃないと少し安心した。
 巷では『蟹工船』の次は”日大全共闘”だという噂が流れているらしい。確かに、思い当たるフシがある。『蟹工船』のあまりにも有名なあの最終章。
 「薄暗くなった頃だった。ハッチの入口で、見張りをしていた漁夫が、駆逐艦がやってきたのを見た」という文章から始まる言葉のやりとり。
 『この、俺達の状態や立場、それに要求などを、士官達にくわしく説明して援助をうけたら、かえってこのストライキは有利に解決がつく。分りきったことだ』
 『我帝国の軍艦だ。俺達国民の味方だろ』
 『国民の味方だって?・・・・・いやくゝ』  
 『馬鹿な! 国民の味方でない帝国の軍艦、そんな理屈なんである筈があるか!?』
 そういうわけで……。
 「皆はドヤゝと『糞壷』から甲板にかけ上った。そして声を揃えていきなり、『帝国軍艦万歳』を叫んだ」
 しかし……。
「それ等(海軍の兵士達)は海賊船にでも踊り込むように、ドカゝと上ってくると、漁夫や水、火夫を取り囲んでしまった」 
「『有無』を云わせない。『不届物』『不忠物』『露助の真似する売国奴』そう罵倒されて、代表の九人が銃剣を擬されたまま、駆逐艦に護送されてしまった」
 ここに描かれているのは、昭和の初期、オホーツク海の洋上での出来事である。
が、殆ど同じことが、昭和四三年、東京のど真ん中の神田三崎町で起った。あの時、あの場所にいた日大生は、誰もが『蟹工船』の右の一部を思い出しただろう(読んでいればの話だが……)。
 日大闘争の発火点となった「6・11血の弾圧事件」(経済学部の校舎前で集会を開いていた学生に対して、暴力団員と体育会系の学生が、校舎内から机、椅子、消火器、鉄アレイ等を投げつけ負傷者が続出した事件である)、この時、出動して来た機動隊を、多くの日人生は『蟹工船』の漁夫たち、が『帝国軍艦万歳』と叫んだように、万雷の拍手で迎えた。彼等が加害者の暴力団員や体育会系の学生を検挙するに違いないと思ったからだが、結果はよく知られている通り、検挙されたのは被害者側の集会参加者だった。
 「日大の暗黒」をまざまざと見せつけられたこの事件の体験者は、『蟹工船』の登場人物たちに、容易に感情移入することが出来ただろう。
 従って『蟹工船』が突然異常なベストセラーとなる不可解な時代には、日大闘争が再び脚光を浴びることにも無理はないという等式が成立するのである。

 そしてまたNHKである。一月十七日、BS2ではない、本放送で東大闘争を特集する番組が放映された。全共闘の活動家のその後を追跡調査する内容で、随分前にも以だような企画で制作された番組を見た記憶がある。
 しかも今回は、東大安田講堂での徹底抗戦から四十周年である。それなりに深化した形でのNHK風「総括」が行われると思われたが……。活動家のその後を追う取材方法は従来通りだったが、ここに日大全共闘の活動家二人が登場した。
 議長の秋田明大と、例の「単ゲバ男」山崎晴久。わざわざこの二人を登場させたことは、東大闘争に日大全共闘が密接に関わっていたという認識が、NHK側にあったからなのだろうか。
 それにしても亡くなった今井澄をはじめ、元東大全共闘の方々に漂う”その後”の苦悩を連想させずにはおかない悲哀感に比べ、日大の二人に脹る何という朗らかさ。
「あなたにとって日大闘争は何だったんですか?」という凡庸過ぎる質問に対して、笑いながら「何だったんですかねえ」と答えた秋田明大のポーカーフェイス。また山崎晴久の口をついて出る相変わらずの武勇伝!武勇伝!
 しかしこの明暗もまた、NHK風「総括」なのだろうか。ただこの番組も、単純明快な日大闘争とは対照的だった東大闘争の複雑快奇な様相を解明したとは、とても言い難い。
 東大=日大闘争の全局面を、大胆なほど緻密に把握しているように感じられた島泰三の『安田講堂1968-1969』(中公新書)にも書かれていなかった東大闘争の裏側。
 今後、日大闘争を再検証する際にも、それは避けてはならない問題であり、これまで忘れられたかのように封印され続けていた謎の部分であると、敢えて前置きして述べさせていただきたい。

 日大生が最初にそれを感じたのは、やはりあの記念すべき六八年十一月二二日の集会に於てであった。集会の始まりは、島泰三の著書でも、あるいはNHKでさえも、実に感動的に伝えられている。私はその時二千名を超えるデモ隊の先頭最前列の旗竿部隊で「芸闘委」の旗を持って入場したので、その「感動」に偽りはないことは証明出来る。
 だが、残念なことにその「感動」は、十数分後には早くも失望に変った。日大全共闘の部隊の両サイドにいた革マル派と社青同解放派が、革マル派委員長の発言をめぐって激しい罵り合いを始めたのである。
 われわれはただ呆然とするばかりだった。もしどこかのパーティ会場で、メインゲストを目の前にして主催者が口論を始めたら、それはまさしく「醜態」と呼ぶに値する愚行ではないか。日大全共闘内にも、党派に属する活動家は相当数いたが、立場を逆にして考えた場合、あの集会が日大講堂に東大全共闘を招いて行われたとしたら、東人生の面前で仲間割れを演じて見せる日大生は1人もいなかったと断言出来る。
 案の定、十二月に入って、革マル派と社青同解放派は東大構内で武力衝突に至ってしまう。国家権力との直接対決を目前に控え、学内も”かい人21面相”=宮崎学に指揮された民青が闘争破壊を企てようとしているその時に、己の足元を危くする分裂騒ぎは明らかな利敵行為であるということが、あの最高の「最高学府」に属する方々の頭には判らなかったのである。
 そして一月、機動隊が導入されたその時、安田講堂の時計台には「中核」と書かれた旗が掲げられていた。前年十一月の集会の時には「革マル派」の旗があった同じ場所に、である。
 われわれは主役の俳優が急病になって、代役が起用された芝居を観る思いだった。この間の東大全共闘内部での党派の流動について、全共闘は学内に対しても学外に対しても全く説明を行っていない。
 安田講堂外の建物で、最もよく戦ったのは法学部研究室の中核派と列品館のML派だったが、この二つの建物と安田講堂の間には法文一・二号館の校舎があった。ここは当然革マル派と社青同解放派が死守すべきだった、と思われたが、抵抗らしい抵抗は行われなかった。それぞれにそれぞれの考え方があり、事情があったのだろうが、革マル派と社青同解放派が徹底抗戦を回避するというのなら、法文一・二号館には中核派とML派を配置すべきだったのではないか。そうすれば機動隊が安田講堂にとりつくのはもう一日を要しただろう。
 明らかに戦術ミスと思えるのだが。この年の初め、全共闘とその周辺のシンパ層の間では「一月東大、二月日大、三月京大」という合言葉が流布されていった。入試粉砕闘争のスケジュールである。が、一月東大にも三月京大にも全国動員で対応した新左翼各派も、日大にはソッポを向いてしまい、組織温存を迫られた日大全共闘は、封鎖解除にも徹底抗戦は行わず、奪還闘争も小規模にしか行えなかった。その問、東大全共闘からの支援は全くなかった。
 「東大のヤツら、じぶんたちにはさんざん協力させといて、他人には何もしないんですね」
 一年後輩の芸闘委の学生が、そんなグチを言った時、私はなぐさめるように言った。
 「俺たちは所詮。椿三十郎”なんだよ」 言った瞬間、恥しくなって顔をそむけたが、相手は納得したように、ビールを飲み続けていた。

(終)

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