6月13日(土)、東京・神田の学士会館で10・8山﨑博昭プロジェクトの第二回講演会が開催された。今回は、この講演会の前半、最首悟氏の講演の部分を掲載する。

会場の学士会館は地下鉄「神保町」駅の出口を出てすぐのところにある。非常にレトロな感じの建物であるが、それもそのはず、昭和3年(1928年)開業ということである。

地下筒の出口から学士会館に向かうと、野球のボールを持った大きな手が出迎えてくれる。
ここは「日本野球発祥の地」ということで、そのモニュメントである。(詳しい由来を知りたい方は学士会館のホームページを参照)

さて、、講演会の参加者は約130名。会場はほぼ満席となった。発起人の佐々木幹郎氏の司会で、講演会は定刻どおりに始まった。
山﨑博昭君のお兄さんである山﨑建夫氏から冒頭の挨拶があった。

挨拶(山﨑建夫)
「今日、講演会をやるのは、樺美智子さんが亡くなられた6月ということにもちなんでやっている訳です。6月に樺さんが亡くなり、10月に私の弟が亡くなりました。どちらも権力犯罪、首絞めて殺されているはずなのに圧死、警棒で殴られているはずなのに車に轢かれて死んだという風になっている。
50年経つからそろそろ何かやらなあいかんという話が出た時、とても嬉しかったです。何か華やかな事をするのは僕も弟もそんな好きではないので、最初は戸惑ったんですが、特にモニュメントを作ろうなんていう事については。
だけど、それらを準備して下さる方がおって、、それを無視できず始めたんですが、とてもよかったと思っています。
一つは今日の集会でたくさんのビラが配られましたけれども、お互いあちらこちらで闘っている人たちが、どこかでつながる一つのきっかけになるということが一つと、かつては華々しく闘ったけれども、今はもう何十年も長らく沈潜しているが、俺たちの青春だ、あるいは絶対に消してはならない、応援するよ、と言ってくれる人たちもいたり、あるいは政治とは全然関係なかったけれども、同じ高校で一緒に生活していたんや、何とか応援しよう、という人たちも現れてきました。そんなことがとても嬉しいですね。
今、こんな時代ですから、とにかくいろんな形で、いろんなところで闘っている人たちが力を合わせて、思い切り右へ行こうとしているのを何とかしたい、そういう力になれればと思っています。
これからもよろしくお願いします。ありがとうございます」
第二回講演会の最初の講師は環境哲学者の最首悟氏である。発起人の山本義隆氏から講師の紹介があった。

講師紹介(山本義隆)
「発起人の山本です。3・11の福島の事故は戦後の日本の影の部分というのを暴き出したように思っています。それは何かというと、一言でいうと、日本の社会というのは人々のいのちを粗末にしてきたんじゃないか、という思いです。
明治維新から今日まで150年くらいですけれども、その半分が戦前で半分が戦後ですけれども、戦前の殖産興業、富国強兵という形で総力戦体制を作って軍事的にアジアに侵略して行った訳ですけれども、戦後、その殖産興業が高度成長に言い換えられて、富国強兵が国際競争に言い換えられて、やはり同じように総力戦体制で、今度は経済的に外国に進出して行って、その間、戦前も戦後も一貫してアジアの人びと、そして日本の大衆のいのちを粗末にしてきたのではないか、そんな風に思っております。
最首さんは、私と一緒にほぼ同じ時に大学に入って、安保闘争の時に教養学部で一緒で、それから一緒に理学部に進学して、大学管理法闘争、それからその後のベトナム反戦闘争、それから東大闘争を闘ってきたんですけれども、実は最首さん、私より5つ年上です。
小さい時に喘息でダブッておられて、その後もいのちの問題と向き合ってこられました。
今日の集会、戦後を生きてーいのちを考えるーということで、最首さんに是非とも来ていただいて話をしていただきたいと思ってお呼びしましたので、最首さんに1時間話をしていただきます。私も楽しみにしておりました。みんなと一緒に聞かせてもらいたいと思います。
最首さん、お願いします。」
続いて最首悟氏の講演となるが、分かりやすい内容ではない。最首氏の講演の中に出てくる「ことば」や人名などは、聞き手が基本的な事が分かっていないと、聞き手に届かないように思われた。そういう意味で「注釈」的なものを付ければいいのだが、そこまでは無理。また、「注釈」を付ければ分かるのか、と言われれば自信がない。
そんなことで、講演のレジュメを最後に付けたので、それを参照しながら読んでいただきたい。

最首 悟氏講演(概要)
講演の冒頭、講演のタイトルの説明として
「ちょっと変な題名ですけれども、焦点なき場というのは重複しておりますが、場というのは元々焦点がない訳で、強調という事で、焦点なき場ということで、いのちはいのちという、これはお前はお前だよ、俺は俺だよという、俺は俺、お前はお前、相互干渉、おせっかいは止めてくれというような、あるいはお前のことはもう知らないよというな用法ですね。いのちはいのちと突き放すというか、突き放さざるを得ないというか、というのは考えても分からないということで、(レジュメの)冒頭の『いのちのことは分かりません』ということで、不登校新聞に掲載された最後の部分を載せましたので、後でご覧になって下さい。
いのちはいのち、いのちのことは分かりませんと言った途端に、実は始まってしまう。その始まってしまうところのことが問題なんです。」
この後、レジュメに沿っての説明となった。
「いのちということは曖昧である。一言でいえば分からないんですけれも、曖昧であることをどうするかという問題が『唯の生』の『唯の』に込められている。つまり曖昧だからハッキリさせろよというのが普通なんですけれども、ハッキリさせられない曖昧さがある、それをどうするんだということ。これは私たちが学生の頃習ってきた方法論とは違う訳です。」
「ハッキリさせるには何が必要かという問題の道というか方向があります。その方向を探って道が無いとしたらどうします?(レジュメの)『まるごと無条件の全体』がその一つの回答です。
まるごとは元々無条件の全体ということで、これも重複しておりますが、このことを巡って岩波書店から刊行予定の『人々の精神史』第5巻で山本義隆を扱います。
全共闘のポイントは、それは半ば無意識だったかもしれないけれども、何だったんだろうかということの中で、まるごと無条件の全体というものを萌芽であれ、そこから抜けられなくてというか、そこに改めて向かったというか、そういうことだったんじゃないかということを書きました。
そのポイントは『自己否定を重ねて、最後にただの人間、自覚した人間になって、その後、改めてやはり物理学者として生きて行きたいと思う』という総括、極めて明快な、総括としては凄まじいものです。この3行くらいの総括、これ以上に山本は言う必要がない。
山本義隆は何もインタビューに答えないと言われてきましたけれども、私の見方では言う必要がない、もう言っちゃった、それ以上言うことは無いのだということなんですね。
ひらすら実践あるのみ。
そして、山本義隆の滝沢克己に対する質問状というか往復書簡が朝日ジャーナルに出ます。
その滝沢克巳関係としては、村上一朗さんの言葉に『何の保留、躊躇も擬態も韜晦(とうかい)もないのである。只の人とはこういうものだ。』というのが出てきます。
このただということを巡って、まるごと無条件の全体のことなのだということ、それを巡って、どういう風にアプローチするのかというのが問題になってくる訳です。」

「一つは立ち位置の問題というのがある。
『惘想(もうそう)する立ち位置』という項になります。関係の絶対性と考えていくと分からない。ただ匂ってはまいります。西田幾多郎まで行かざるを得ないだろうという関係の絶対性、これは吉本隆明がだいぶ早く『マチウ書試論』で展開しようとしたことですけれども、それについての惘想ということを書きました。
惘想というのは心の中の網の想いということ、ネットワークです。一応私たちは網の目と、自分を人を事物を指すんですけれども、目と目をつなぐ糸を関係ということでイメージする。その時に、目という結節というのは、それが大事なんです、それが主体なんです。普通はそうなんです。目と目を糸がつないでいるんですけれども、糸と糸とを目がつないでいるだけということになるとどうなるか。モールス信号みたいにトンツートンではなくてツートンツーということですよね。
それからもう一つ、このネットは閉じているのか開いているのか。これは大問題です。開いているとなると立ち位置はどうなるか。そして開いているネットということなりますと、いよいよ意味性の問題が出てまいります。たぶん私たちは無意味ということでは、それは口走るけれど、駄目なんだ。有意味の合意、しかし意味というものを万人が感得することはあっても、それが何なのかを言葉にしなくてはいけないとなると、どうしてもここまでのところでの合意だよね、という風にしかならない。サイエンスというのは、そういう合意です。今のところの合意。そういう意味でサイエンスや理性的というならば、理性的合意ということをいう意味ということにおいては、しなくちゃいけないんじゃないか、ということになります。そこにアインシュタインの言葉が出ています。『ベートベンの音楽は音波の圧力の変化じゃないだろう』ということで。
そして開かれている網の意味性ということになりますと、どうしても全体ということに行かざるを得ない。もちろん無限というものを含んだ全体、無限そのものということでもいい。その全体ということについてどう考えるか、ということを私たちは考え、それをほとんど無意識だったかもしれないけれども、言うことであります。」

この後、1920年代についての話に入った。
「今のこの時点での、そして非常に重要な時点という風に世界はなっておりますけれども、これはやはり1920年代というところに、ひとつ戻っていく必要があるだろうという風に思います。全体主義ということの中からの全体の救出、というようなことを書きましたけれども、救出がいいのかどうか分かりませんが、私たちは全体嫌い、もう御免こうむるという、全体主義はファシズムです。日本も日独伊三国同盟の一員で国際連盟を脱退して、大和、武蔵などという本当に無用の長物を作ったりする訳ですね。もう全体と聞くだけでちょっと嫌な感じがする。それを私たちが無意識に、もう1回やり直さななければいけなんじゃないかというのが1960年代末の民主主義の問題である、ということになる訳であります。」
「私たちは全体ということを考えるんですけれども、例えば、元に戻ってまいりますと、レジュメの2ページ、清水真木さんの新書『感情とな何か プラトンからアーレントまで』ですが、ハンナ・アーレント(哲学者・思想家)が晩年、公共の意思ということの基に感情というのがあるということを書こうとした。もちろん私たちは1960年代、例えば理論信仰と実感信仰というような、丸山真男と対小林秀雄と、理論信仰と実感信仰という、理論信仰の方に傾いている訳ですけれども、そうはいかないだろう。
晩年のアーレントの『感情こそが公共の意思の前提そのものなのだ』ということをどういう風に導くかという本です。その中で全体ということについて、『一人が一票を投ずる時に私利私欲で投じてたんじゃ民主主義は成り立たないだろう。私利私欲で投じる時には多数決原理というのを民主主義原理とするしかない訳ですね。多数は正義ということにならざるを得ない。それでは民主主義は成り立たない。実際の民主主義はそうですよね。それぞれの私利私欲に従って投票して多数派を代表するものが国家を動かす。それがもし民主主義だとしたら、民主主義は到底永続する政治社会原理にはなり得ない。』
一人は全体を考えて投票している。故に一票の格差というような数の問題というのは大した問題じゃないんだ。それがさすがにあまりにも違い過ぎたら問題でしょうけれども、常に一人が1.0票をきちんと持つなどということには到底社会は成り立たない、その誤差をどの位で納めるのかという問題と同時に、誤差そのものを問題としない視点があるんじゃないか、と清水はアーレントを論じてきて言う訳です。
しかし、これはまたルソー以来の原理でありまして、一般意思の問題ですね。私たちは投票した途端に一般意思に権利の譲渡をしている。その一般意思の代行をしているのが政治権力であるということになる。その時に一人一票を確保するために、人は徒党を組んではならないというのがルソーの市民社会の基礎です。セクトを作ってはいけない。
全体ということについて、揺らぐのは全体が権力化した時です。圧制が出てきた時に、個人、自由、自由主義というのが出てくる。今度は力勝負になる。大体は体力に優れて、気力に優れている、そして筋力に優れている者がレッセ・フェール(自由放任主義)の結果として権力を掌握することになる。
それを防ぐのは何なのか。権力自体がそれをわきまえるのは、自分が全体というものを代表して振る舞うのはどういうことなのかということを、具体的な人間・権力者そのものがどう思うのか、というのが問題な訳です。その時、やはり価値観、世界観の問題になっていく。」
「ドイツの1920年代から30年代、最高の知的な展開がされる場であり、最高の民主主義憲法を持った場であり、それがどういう風にトータリズム(全体主義)に吸収されていくかという問題でありますけれども、それはまたいろんな影響を持つ。最後にはテロリズムと自分たちの主体性ということでナチズムが成立してくるにしても、あるいはスターリニズムが成立するにしても、その基になる考え方というのは何なのか。
学問的には、ここがまた坩堝になておりまして、J・S・ホールデンが19世紀末から1920年にかけてホーリズムというのを展開した。そしてヤン・スマッツのホーリズムが20年代末から30年代にかけて出てくる。生気論という非科学から、全体、ホーリズムという科学に生物学を持っていこうという主張だった。
物理は言うまでもなく実体から関係性へ、そしてアインシュタインからカッシーラへ哲学が引き継がれて、そして山本義隆がそれを精力的に訳すというになりますけれども、その実体から関係性へということの中で、実体という限りは、それを覆うもう一つの権威、権力、世界ということが可能であったけれども、関係性となると、絶対的な何かということがどうしても揺らいでくる。その関係性ということが全体ということと結びついて、そしてゲシュタルト(形態)や環境ということが出て参ります。
つまり、学問で言えば、物理学が実体から関係へと移行してくるというところに多くは引き継がれていく。皮肉は生物学が19世紀物理学ということに依拠して、20世紀まっしぐらに還元論的、機械的生物学を展開していくことにあって、合言葉は全体ということでは実験生物学は成り立たないということなんですね。何もするなということが、日本においても正にJ・S・ホールデンが訳された時の態度、これじゃあ科学は進まない。
そして、今、20世紀というのを展望するにあたって、物理学はまっしぐらに意思、心に向かって行ったけれども、生物学は逆方向に19世紀物理学に則って、お互いにすれ違う高速列車のようである、などというような批評になって出て参ります。」

ここで、話が変わって全共闘の話に入って行く。ここからは分かり易い。
「全共闘というのは、それはまた一括りにしなくてはいけないでしょうけれども、一括りにした時に、東大全共闘というと実に何かいじましい訳です。日大全共闘からすれば当たり前のことである。日大全共闘というのは、そういう意味では分かりやすいと言えば分かりやすい。使途不明金23億円というのは、たぶん日本会に流れた。日本会というのは日本会議の前身の佐藤栄作が会長で、西尾末広なども入っている日本の保守そのものの進めて行く会議です。会長は佐藤栄作。たぶん使途不明金はそこに流れたのだろう。そして実態は大学とはいえ、というような封建体制への闘いというようなものである。体力勝負、もう体力でぶつからない限りどうしようもない。たぶんそれは全共闘というものの爽やかさというか、血沸き肉躍るものである。これは島泰三の『安田講堂』にありますけれども、本の帯に『明日あると信じて来たる屋上に旗となるまで立ちつくすべし』。実によろしいですね。ワルシャワ労働歌。もちろん島泰三は実刑2年送られましたが、今は動物人類学者ですけれども、この冒頭は佐世保で始まる。彼は人類学の4年生として佐世保に行きます。やはりセクトがらみ。セクトと言ってもシンパなどいろいろあります。焦点は68年の1月18日であります。安田講堂の1年前。佐世保は67年の9月。10月8日に山﨑君が死ぬ、その前に佐藤栄作がエンタープライズの寄港を認めるという決定を出します。そしていよいよエンタープライズがやってくる訳です。7万5千トン。これの阻止行動は反戦と反核、両方含んで、そして右翼まで入った。右翼は実は、この中核を基にする学生の行動に敬意を表した。島泰三はそこに参加して行く訳ですけれども、後で、右翼からもよくやってくれたと言われたという挿話が出てきます。三島由紀夫があとで全共闘の時に、一言天皇と言ってくれれば共闘できると言った下地になっています。もちろん公明党は相当 動員かけますし、右翼から学生まで、これはとにかくエンラープライズ阻止、ここに一国のプライドというのががかっている訳でありますね。
山本義隆にかこつけて書いた文章に私は砂川判決のことを書きました。私たち東大全共闘というのは、私たちとすれば、ベトナム反戦会議から理系の大学院を中心にした全闘連ということを抜きにして東大全共闘はないと思っている、そういう全共闘でありますけれども、どうして全共闘になるかということについて、4つ網の目の結節を挙げました。
一つは、もちろん1960年代。60年の一つの拠り所というのは、砂川判決で、伊達判決が出ます。日本が協力していろんな便宜を図って認める、どうぞ居てくださいというアメリカ駐留軍は日本国憲法に定める戦力に値する。占領下の米軍であればしょうがない。
しかし、この独立後の、建前は対等の国が結ぶ安保条約ということの中で、日本側の協力体制ということを問題にすれば、これは日本の憲法が定める日本の戦力に値する、故に駐留米軍は違憲である、と言う判決を下して、これはもうマッカーサーの方は激怒するということになります。自民党は伊達判決を受けて、すぐにアメリカからこれは到底受けられないという連絡を受けて、高裁をとばして跳躍上告をします。そして最高裁の田中耕太郎が出したのが統治行為論という、憲法審査の対象にならないということなんですね。
それはもう開いた口がという感じはするんですが、しかし、私たちが奮い立ったのは、結局は、国会を通じて、そして国会を選んでくる国民の問題であると訓辞を垂れている訳です、最高裁判決は。終局的には国民の判断するところなんだ。ここです。そして私たちは間接民主主義ということには直接民主主義の力あってのこと、日本の戦後民主主義には直接民主主義の力を示したことがない。ここで最高裁は、その力を示せと言ったんだという風に解釈する訳です。
ここで起ち上がらなくてどうするんだ、というのが実は砂川最高裁判決なんです。
砂川最高裁判決はどうしたって表に出て来れないようなものです。田中耕太郎がアメリカと取引をした、そう見なさざるを得ない文書というのが一昨年アメリカから発表されました。そして、今の高村という弁護士が楯にとっているのは、田中耕太郎がその時に付けた長文の補足意見。その補足意見では、自衛即他衛、他衛即自衛であるという論を展開しているんですね。個別的自衛権も集団的自衛権もそんな区別はないんだ、今や自衛といえば他衛も自衛も同じなんだということを、田中耕太郎が延々と書く。
判決そのものは、最高裁は違憲審査ができないという統治行為論ですけれども、補足意見は正に集団的自衛権の問題を扱っている。どうして自民党はこの田中耕太郎という凄まじい人、法学部長であり初の文部大臣として新しい憲法に署名した人であり、最高裁長官になった唯一の人物のこの意見を今言わないのか。これはもっともっと今から出てまいります。言えば日本が独立していないことが分かってしまう、そういう中での最高裁判決は日本の憲法の判断基準になり得ないということなんです。それを高村は分かっているだろう、当然ながら公明党も分かっている、それは言えないということです。
しかし、これが明るみに出てくれば、伊達判決をいとも簡単に覆した最高裁判決は日本の判例に残らないというになりかねないんですね。判例から消されるかもしれないような最高裁判決を基にして、安保法制を通そうなんてことは、これはどんなことをしたってできる訳じゃない。
しかし、私たちが安田講堂決戦まで来る道のりの中の最初は、この最高裁判決にあったことを、山本にかこつけた文章の中にちょっと記しました。そして日韓会談がまいります。同時にベトナム戦争、北爆が始まります。エンタープライズはその象徴。そして私たちにとっては、あるいは山本義隆にとっては物理学会への米軍資金流入問題というのが出てまいります。その中で私たちはベ平連の結成というものに対して、ある対抗意識を持って、ささやかに30名ほどでベトナム反戦会議というものを、理系の大学院を中心として起ち上げました。その中心になったのは、お茶の水大から阪大、そして東大にやってきた所美都子という生物学の大学院生、新聞研の研究生になってきた女性です。そのことをレジュメにちょっと載せました。ここにまるごとの無条件の全体ということが出て参ります。
組織、それも軍事化した組織、生産とは軍事である。精神的作業だろうが何だろうが、生産が軍事化されている。そして組織、制度化されている。それに抗するにはどうしたらいいか。もちろん解答はないです。ただ、民主主義の混乱期あるいは民主主義の育成期あるいは冷戦の真っただ中ということの中で、自由主義陣営の勝利ということを言いながら、その矛盾をあっという間に深化させていく、その中で全体というはどうなのか。私たちには、高木仁三郎もそうですけれども、どうしたって宮澤賢治が出てくる。
その全体という事に向かってどのように踏み出すのだろう。あまりにもアレルギーは強すぎます。全体と言ったら、もうそこで話は終わりみたいな雰囲気です。しかし、翻って考えれば、学問というのは一体何を目的としてやっているのか。そして、その方法的な意識というのがその後やってくるというのが、『惘想(もうそう)』という、そして物理学がまっしぐら進んでいった、そして湯川に始まり南部に終わるという素粒子学の中で、真空における対称性の破れというところまでやってまいりました。それは弟子筋のヒッグスが実験的に証明してみせるということになる訳でありますけれども、ここまで来て、そして全体というものが、例えばゲシュタルト心理学におけるように場ということ、あるいは生物学のホーリスティックな立場というのが場を想定せざるを得ないということにおいて、場の問題というのをどうするか、場においてということがどのようにこの私たちの問題意識と繋がるかということであります。

実は私たちにとっては場の理論におけるナル言語と言われる日本語の問題がある。場というのが、なりゆき、情況、感情抜きには成り立たない場です。この場というものについて、これをいのちと名付ける、そういう合意ができますか。ハンチントンの『文明の衝突』というのが20世紀を指し示している訳でありますけれど、この20世紀において、そのよな合意というのができるか。無ではだめなんですね。残念ながら荘子にしても老子にしても、もちろん神はだめです。神そのもののぶつかり合いによって20世紀の危機というのが生ずると言っている訳ですから。そして、言った途端に、それは俺のことか、貴方のことですよという感性、感覚というのが聞いてくる。そういうものとしていのちというものを、この場と名付けるという合意が、今、求められている。あるいは、これから21世紀はそいう風に進んで行くだろう。そうしなければ樺さんも山﨑君も浮かばれないですよ。
いのちはいのちなんです。そしていのちは貴方であり私なんです。
私は1976年から重度複合障害の娘と暮らし始めるという、暮らし始めるなんて言うのはおこがましいですけれども、しかし、この星子と対話する、星子はものを言いません、自分で食べもしないし目も見えないし、排泄の始末もしない。まるごと口の中に入れたものを飲み込むんでありますけれども、38歳になりました。やはり私にはいのちという実感は、自分がいのちだというよりも、貴方がいのちだということが星子とだぶってくる。それは他の人びとと同じに普遍できていくという事であります。
私たちが学問としてはっきりさせたいということが、実は全共闘以降、すぐに真理はない、サイエンス研究から真理の探究が消えました。それをひとつにいろいろと動く訳でありますけれど、真理の探究じゃなくて何をもって探究するのかということが無い。無いままにサイエンスは制度・組織の中に取り込まれて、あまりにも無惨な姿になってしまう。そうじゃない。学問はそうじゃないです。その時に方法も目的も共に問題にするものとして、いのちというのが登場してきている。そして、いのちは無量価値である。価値を測れない、『いのちは地球より重い』などというせこいことを言っている場合ではない。
しかし、星子のいのちが例えば人の暴力によって失われたとすれば、私はその人に向かって、やはりその人のいのちを奪うかもしれない。そういういのちです。
この21世紀、1920年代から100年目にあたって、もちろんそうそうたる学の権威が揃っています。そこのところをもう1回立ち返りながら、私たちは行動していく、あるいは知的な努力をしても、いのちという場はいのちだということ、そして貴方も私もいのちだということをモットーにして進めないものか、という風に考える訳であります。
終ります。」
以上が最首悟氏の講演の概要である。

司会(佐々木幹郎)
「どうもありがとうございました。後半になるにつれて熱を帯びてきて、最首さん、星子ちゃんはもう38歳になられたんですか。僕は星子ちゃんが生まれた日のことをよく覚えています。とても後半は面白かったです。最初は何を言っているのか、どこへつなげるのかなと、ここは東大全共闘のおかしなところで、山本さんは人間関係のコミニュケーションはとても下手なんですが、話はとてもうまい。最首さんは人間関係、コミニュケーションが無茶苦茶うまいんだけど、話は何を言っているのか分からない。今日は後半、熱を帯びてとても面白かったです。どうもありがとうございました。」
【講演のレジュメ】
焦点なき「場」について―「いのち」は「いのち」
§いのちはいのち
・いのちのことはわかりません 立岩真也「いのちとはなにか」シリーズ①~③不登校新聞、
2009/11月
――最後に「いのちとはなにか」という質問をさせてください。
去年、慶応大学で最首悟さんと講義をしました(連続講義「いのち」から現代世界を考える』岩波書店)。そこで最初に話したのが「いのちのことはわかりません、おわり」と。今回もそういうことです。
「○○とはなにか?」という問いは、よくわからないことがあるんです。その問いに意味がある場合、ない場合、何を問うているのかわからない場合、答えてもしかたがない場合、答ないほうがいい場合、いろいろな場合があります。
少なくても、私には生きているということがどういうことなのか、よくわかりませんし、わからなくてよいようにも思います。そして、いのちとはなにか、その問いに答えようとする欲望が私には足りません。また、いのちとはなにかという問いに、答えがなくてもよく、一つじゃなくていいとも思っています。べつにいのちの大切さやすばらしさなどをいっしょうけんめい言わねばならないとも思いません。死ぬより生きているほうがいいだろう、というぐいのことです。だけど、もっともらしいことを言って、他人に「死んだほうがい」などと言っている人たには、「それはちがう」と言ってきました。それを説明するのは私の仕事です。
――ありがとうございました。(聞き手・石井志昂)
・「いのち」をめぐる断章 立岩真也『「いのち」から現代世界を考える』高草木光一編、岩波書店、2009/6月
「いのちのことはわからない。終わり。結局はこれに尽きていますが、すぐ終わってしまう話をどう終わらせないかという話になると思います。
基点
私は一九六〇年の生まれです。ですから一九七〇年は一〇歳、六八年は八歳、小学校二年生です。そして私は佐渡島に一八歳までおりました。都で何が起こっているのか、ぴんときていなかった。六八、九年あたりの最首さんたちのご活躍は、リアルタイムにはほとんどわかっていなかつたです。ただ、そういう世間知らずの私でも、七〇年前後に水俣の人たちが東京に莚旗立ててやってきたのをテレビかなにかで見たという記憶はあります。あとで文学部に行く、社会学、社会科学をやがてやることになる、それにはその記憶が関わっているだろうと思います。
どんなに田舎に住んでいても、中学生から高校生くらいになると、いかなる出来事が起こって、そこで何が言われたか、すこしは知るようになります。私の場合、社会科学よりも、音楽やアートからやってきたものから、面白そうなことが起こってきたという感じはしていました。基本的にそこで言われたポジティブなことは、「いのち」や「生」を大切にしましょう、というものすごく単純なことであったかもしれません。しかし、それが可能であるために社会は組み立てられなければならないし、組み換えられなければならない。最も短く言つてしまえばそういうメッセージだつたと思います。私は一回り送れている世代ですが、とくに「学問」に限定しない出発点、根っこでは、その時代、その世代から、そのようなまったく身も蓋もないメッセージといいますか、を受け取ったという気持ちが確かにあります。私が大学へ入つたのは七九年ですが、いわゆる「学生運動」、それより広く「社会運動」と言われているもののある型のものは、七〇年代に入ってからだんだん退潮していきました。そういうものからある部分をもらつたという確かな思いと同時に、その次をその人たちが考えてくれなかったという思いがどうしてもあります。つまり、ベースにある基本的な価値は、曖昧でありながら確かなものであるわけですが、その曖昧な部分をどう整理していくか。さらに、その次のために社会をどう組んでいくのか。それが問題であったはずです。過去何百年、さまざまなアイデイアは出されてきました。そうしたものを継承し、あるいは否定し、破壊する思想もあったわけですが、途中で止まってしまったり、なんだかよくわからないことになってしまった。そんなところに立たされているように、だんだんとですが、私は思うようになりました。
おわりに
最初に私は「六八年の世代の人たちは社会体制をめぐる問題についてもっと考えることを続けるべきだったのにそれをしてくれなかった」と言いました。その世代から受け取るものは確かにあります。しかし、彼らの理念や想念を表した言葉が、数十年のときを経ていま微妙な食い違いを見せています。むしろその同じ言葉が彼らの理念や想念を裏切っているとも言えるかもしれません。彼らの理念や想念に立ち戻りながら、こまごまと考えること、そして社会の仕組みのこととして社会科学的に考えること、これを私は当面の生業としています。いささか迂遠になりましたが、「いのち」をめぐる話になっていれば幸いです。
・立岩真也『良い死』『唯の生』(筑摩書房、2008、2009)語呂合わせのようなもの。あまりぱっとしない生を否定しない方がよい。(序文)
§まるごと無条件の全体
・最首悟「山本義隆――自己否定を重ねて」『人々の精神史』第5巻、岩波、予定
・山本義隆「自己否定に自己否定を重ねて最後にただの人間――自覚した人間になって、その後あらためてやはり物理学徒として生きてゆきたいと思う」(「攻撃的知性の復権」『知性の叛乱 東大解体まで』前衛社、一九六九(初出『朝日ジャーナル』、1969〔3月2日号〕)
・村上一朗「何の保留、躊躇も擬態も韜晦もないのである。只の人とはこういうものだ」(「呑み助三島さん――畢生の大先輩を憶う」『思想のひろば』26、2015、p75)
ただ:ぢか、直、触れているだけ、浸っているだけ、隙間がない。まぬけ、価値がない、ただより高いものはない、無償、無量価値 (小田実:ボチボチ)
・清水真木「民主主義社会を構成する一人ひとりは、自分の個人的な利益を政策に反映させるために投票するのではなく、社会全体の利益を考慮して投票しなければならないからです。自分の私的な利益は括弧に入れ、社会全体の利益になることは何かをみずから考えること、自分と意見を異にする者たちとのあいだでオープンな議論を重ねることにより合意形成を目指すことは、民主主義社会に生きるすべての者に課せられた義務なのです。 全員がこの義務を自覚的に引き受けないかぎり、民主主義は成り立ちません。反対に、この義務が義務として認められているかぎりにおいて、選挙区のあいだに一票の格差があり、さらに、たとえば有権者数や投票率に開し世代間の格差が生れるとしても、少なくとも約束としては、このような事態は、それ自体としては「法の下の平等」を損ねることにはならないはずです。」(『感情とは何か プラトンからアーレントまで』ちくま新書、2014)
・所美都子「予感される組織に寄せて」(現存する組織は全て生産性の論理に侵され、権力集中と上下関係を必須とする。それは組織の軍事化を意味するとして)。
「個々の人間がお互いに負うてきた固有な履歴を、具体的な問題解決の能力という切断面をもって分析し、位置づけることからはなれて、互いに彼そのものの存在を受け入れることによって、認めあうことになる。しかしながら、自己の存在を特定面の投影像で確かめてきた人間が、限定された映写平面なしに、自らを位置づける、そんなことが可能かという疑問をもったまま、横の伝達関係のみで結集している分権的組織等集団をわれわれは想定する」(『わが愛と反逆』前衛社、1969)
「自分の事は何んにも知らず、いのちの意味も知らないで、かわす無数の花言葉 無心に散って、ブーゲンビリア」
§惘想する立ち位置
・最首悟「『関係の絶対性』についての惘想」『現代思想』(総特集 吉本隆明――肯定の思想)2008年8月臨時増刊号
・関係性の総体 至高・指向・志向・試行・思考・嗜好 惘想
・パスカルの風船
・ジグソーパズルのピース
・おのがじし 佐々木信綱:白雲は空に浮かべり谷川の石みな石のおのずからなる
・つぎつぎとなりゆくいきおい
・場所、情況、場を導入せざるを得ない「人間」という言い方と主語なきナル言語の「日本語」
§有意味の合意へ
・ アインシュタインはある日友人から、「最後にはすべて科学的にされると信じているのか」と問われて、「そうだ。そうなるだろう」と答えた。続いて,「だが、そのことに意義はまったくない。意味なしの説明は何にもならないのだ。ベートーベンの交響曲を音波の圧力の変化だというようなものでしかないのだ」と言った。(Ronad.W.Clark,Einstein:The Life and The Times 1971)
・全体主義からの全体の救出 1920年代へ、20年代から
・サミュエル・P・ハンチントン『文明の衝突』1996、『文明の衝突と21世紀の日本』鈴木主税訳集英社新書、2000。
・〈真空における対称性の破れ(南部陽一郎)、(ヒッグス)場〉に意味ある名づけをする(理性的)合意に向けて。
・場がいのちであるとする。いのちが場であるかのように。
いのちはいのち あなたもわたしもいのちである
【お知らせ】
10・8山﨑博昭プロジェクト第二回講演会の後半部分(白井聡氏の講演)は、準備が出来次第、掲載する予定です。