野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

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(文書が長くブログの字数制限を越えるため、No332-1からNo332-3に分けて掲載します。)
東日本大震災と福島第一原発事故から3年になる。3月9日、東京・日比谷野外音楽堂で首都圏反原発連合・さようなら原発1000万人アクショ ン・原発をなくす全国連絡会の主催による集会が開かれた。
4大学共闘(日大・芝工大・専修大・明大の全共闘派)は、今年最初の共同行動として、この集会に参加した。

【3・9大統一行動呼びかけ】
「2011年3月11日、東日本大震災、福島第一原子力発電所の過酷事故からまもなく3年。
放射能汚染水漏れなど、事故収束の目処も立たず、いまだに14万人もの人々が満足な補償も受けられないままの避難生活を余儀なくされています。
しかし、自民党安倍政権は何の反省もなく、エネルギー基本計画から原発ゼロ目標を放棄し、再稼働、輸出、核燃料サイクル等を強行しようとしています。
全国的に巻き起こった反対運動によって、現在稼働している原発はゼロとなっています。これこそ国民の希望の反映です。原子力発電という既に“終わった技術”を維持・推進するのは電力需給の問題ではなく、政官財などの一部の都合でしかありません。
一進一退のせめぎ合いの中、我々市民が忘れず諦めず声をあげ続ける事によって、政府に再稼働を断念させ、原発のない未来を1日でも早く実現するために、2014年3月9日に『0309 NO NUKES DAY 原発ゼロ☆大統一行動 ~福島を忘れるな!再稼働を許すな!~』を開催します。
また、3月9日を前後した全国のとりくみをつなぐ『NO NUKES WEEK』共同行動をよびかけます。福島第一原発事故と被害者を風化、忘却させないように、3月9日は全国からかつてない規模の行動を起こし、大集結して原発を終わらせましょう!」

当日は少し早く行こうと思い、30分ほど前に日比谷公園に着いた。公園内ではイベントが行われていた。時間があるのでそのイベントを見学した後、日比谷野音に入ろうとすると、会場内はいっぱいで、入場制限をするというアナウンスが流れている。
慌てて野音に入ると、会場の入り口付近に日大と芝工大のノボリが見える。明大と専修大ノノボリは見えない。「ヤアヤア」という感じで近寄ると、日大のJUNさんが「集会の後の行動はどうするんだ」と聞いてくる。そういえば、私も集合時間しか聞いていない。
芝工大のブログに「4大学は東電前抗議集会に参加」と書いてあったのを思い出してJNNさんに伝える。芝工大のI氏に聞くと首をかしげている。みんな知らない。
今回は行動方針がうまく伝わっていなかったようだ。
遅れて明大のノボリも到着した。

日比谷野音は満員。入口を閉めたので、入りきれない参加者は野音の外で会場の発言を聴いている。この日の集会と国会前抗議集会の参加者は、主催者発表で3万2千人。実数に近い数字だと思う。
集会の.主催挨拶は、首都圏反原発連合のミサオ・レッドウルフさん。
以下、挨拶の要約。

『福島第一原発事故から3年、世間一般的には報道も減り、福島の状況は何一つ変わっていないどころか、むしろ後退しているのではないか。事故も収束してない。直接的被害に遭われた方々の救済が進んでいない。
そんな中で安倍政権は原発の再稼働、そしてエネルギー基本計画を更に原発寄りにしていくことを目論んでいる。
私たちはそれに対しての断固たる反対の意志と、早急に原発を廃止して、エネルギー政策の転換を一日でも早くすることを政府、社会に向けて発信しているが、3年目ということで、更に大きな声を皆さんと一緒に挙げて、原発ゼロを早く実現する、そして多くの人々に福島の事故のことを鮮明に思い出してもらう、そして我が身のこととして原発のことを考えていく、そううことを訴えていけたらと思う。
3年目を機会に、新たな第一歩として今日の大抗議行動を成功させたい。』

続いて/福島からのスピーチが続く。
福島からは名木昭さん(福島県内の全原発の廃炉を求める会・呼びかけ人)、鈴木薫さん(NPO法人 いわき放射能市民測定室たらちね・事務局長)、早川篤雄さん(福島県楢葉町宝鏡寺住職/福島原発 避難 者訴訟原告団・団長)の3名がスピーチを行った。
その中から鈴木薫さんのスピーチを掲載する。

鈴木『2011年3月11日の原発事故から2ケ月後に私たちは「放射能市民測定室たらちね」の開所準備に入りました。それから3年、「たらちね」の歩みをたどっていくと、私たちがどんな世界に生きているのか、そんなことが見えてきます。3年は節目ではありません。何故ならば事故は今も現在進行形だからです。汚染水の漏えいや施設内ケーブルの切断による冷却装置のストップ事故、東電は簡易なミスとして発表していますが、私たちはその内容に驚愕しています。本当に恐ろしいことです。

(No332-2に続く)

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(No332-1の続きです)

そうやって2011年3月11日から一連の事故が起き、それは今も続いています。「たらちね」の事業は放射能の測定を始め、子どもたちの甲状腺検診、沖縄の子ども保養プロジェクト、専門家による講演会や勉強会などを行っています。それぞれの事業を通じて様々な人々と出会い、様々な立場や暮らしを垣間見、そしてその皆さんと同じく被曝し、被災している自分たちのことを考えます。
そんな中、「何故避難しないのか」と時々質問されますが、私自身には大きく2つの理由があります。私の住むいわき市の線量が一部の高線量地域を除き、今現在、年間1ミリシーベルトの許容をギリギリクリアする状況にあること、また、私自身の子どもはすでに親許を離れていて福島には居住していないことが外向きの理由です。
しかし、心の部分では大きな理由が別にあり、その理由から避難せず今に至っております。それはこの事故が天災ではなく人災であるということです。天災で土地を追われるならば、それは致し方ないことです。圧倒的な自然の力の前で人間は無力だからです。津波や地震、火山の爆発、いろいろなことがありますが、人間はそれらの天災を回避しながら居住する場所を選んで存在してきました。人々は自然の中の一部として生きられる場所を探して暮らしてきました。天災による被害にも大きな悲しみが伴い、心身が痛み、苦しみが癒えるには時間がかかります。でも、それでも人は立ち上がり、希望の光を少しずつ輝かせていきながら、明日に向かって進んでいくようになります。私たちの祖先がそうしてきたように、私たちもそうすると思います。
けれども原発の事故は人災です。人の手が及ばない次元のものではありません。私たちと同じ人間の力により行われる、非人道的な行為です。事故を起こすことが目的ではないけれども、結果として非人道的な行為となります。止めようのない力ではなく、止められる力です。同じ人間の行う行為により、私たちが土地を追われることは、道理に合わない理不尽さとともに、大きな悲しみと無念さが心の底に横たわります。どこに引っ越しをしても、どんな新しいコミニティーを築いても、この悲しみと無念さから解放されることはありません。何故ならば、この事故により私たちが失ったものは、取り返しのつかないほど大きなものだからです。
それは子どもたちの心と体の健康のこと、そして未来の事です。「たらちね」で甲状腺の検診を行う中で、子どもたちの事故当時の初期の急性被曝症の話を多く聞きます。一番多い内容は集落の子どもたちの鼻血が止まらなかったことです。これは専門の医師によると、急性的な強い被曝により、体内の粘膜が広範に炎症を起こしたことが原因だそうです。炎症を起こした粘膜から出血をし、鼻血となって血液が体外に排出するということです。避難時の混乱で確認されてはいませんが、鼻血があるならば血便などの下血も予想されます。
鼻血のことだけを考えても、この事故が子どもたちの未来に大きな影を落としていることは、はっきりと見えていることです。
本当に取り返しのつかない大きなものを失ったことに気付かされました。「たらちね」に関わって3年の間、私たちの活動の精神的な支えの根底が、私たちが大人として、一人一人の責任に気付くために払ってしまった、取り返しのつかない大きな代償を決して無駄にすることはできない、その代償をなかったことになど出来ないという思いです。原発の事故により、子どもたちに降ろすことのできない重い荷物を背負わせてしまいました。本当に申し訳ないという気持ちです。
また、健康の問題だけでなく、原発の事故状況が今後どのように悪化していくか見当もつかない中、その収束の行方を担っていくのは、この事故に関係のない子どもたちです。
30年後、40年後、50年度、この事故の責任を問われる大人は世代の交代とともに消えていきます。私たち大人は、子どもたちの小さな肩に暴走する原発の収束を、嫌がおうにも背負わせない訳にはいかず、その罪はとても大きなものです。
これは福島だけの問題ではありません。世の中の責任を担う世代の大人一人ひとりが、等しく抱える責任です。さらに、この事故を積極的に指導する結果になった人々には、もっと大きな責任があります。事故につながるズサンな運営管理とともに、命に係わる重要な情報の隠ぺいです。
「たらちね」は、子どもの肩に乗せてしまった大きな苦しみの荷物を、少しでも軽くすることを目標に活動しています。私たちにどこまでできるのか分かりませんが、できるところまではやろうというのが私たちの考えです。汚染から逃れて新しい暮らしを築いても、心が解放されることはありません。

(No332-3に続く)

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(No332-2の続きです)

そして、それが人の手によるものだということです。
3年が過ぎても、日本はこの問題から一歩も前に進んではおりません。そんな混沌とした状況の世の中に子どもたちが育つ環境があります。
「たらちね」の活動から見えてくる現実は、事故の検証も出来ない、子どもを守ることも出来ない、そんな大人たちの情けない姿と子供たちの悲しみばかりです。
3年をあえて節目とするならば、初めの一歩を、今日のこの日から踏み出したと思います。そして、一人でも多くの大人たちに本気で子どもを守るという気持ちで、残りの人生を歩んで欲しいということ、それが被災地で活動する私たちの願いです。
以上です。ありがとうございます。』(拍手)

この後、坂本龍一さん(音楽家)のゲストスピーチがあり、引き続き原発現地から、中村きくえさん(八幡浜・原発から子どもを守る女の会)、石地優さん(原子力発電に反対する福井県民会議・事務局次長)からのスピーチがあった。
最後に.集会決議が読み上げられ、集会は閉会した。

4大学共闘は、集会後、東電本社前に移動した。途中「いたばし さらば原発」のノボリを持った日大のO氏と一緒になり、東電本社前に到着。
東電本社前抗議の呼びかけ団体は、たんぽぽ舎と経産省前テント広場である。
抗議行動の冒頭、抗議趣旨の説明があった。

『みなさん、こんにちは。(異議なし)趣旨説明を行います。今日は原発ゼロ統一大行動の一環としまして、東電本店合同抗議闘争を行います。未だに事故は収束しない、ますます状況は悪化しています。こんな東電を残しておく必要はありません。(そうだー)徹底的につぶしましょう!
福島では東電はいかにやる気がないか。何と2億4千万ベクレルの放射能がタンクから漏れ出している。東京電力が一応タンクの管理をしていた訳ですが、警報機が鳴ったって放りっぱなし、バルブの栓が開きっぱなしになっている。そして自動停止を止めて、手動式で、すれすれまで2億4千万ベクレルのストロンチウム入りの汚染水を溜めに溜めた。あれはどう見ても、手に余ってわざと漏らしたとしか考えられない。(そうだー)
もはや東京電力には当事者能力、管理能力がない。こんな東電つぶしてしまうしかない!福島の子どもたちは今現在、26万人検査しました。そのうち何と75人ですよ、甲状腺がん。通常であれば100万人に1人しか出ないと言われる子供の甲状腺がんが、26万人の子どもたちのうちから75人ですよ。山下俊一は機械が良くなったから発見されたなんて言うな!ふざけんじゃない!我々素人が見たって福島原発の放射能が原因だということがすぐ分かりますよ、26万人で75人ですからね。
しかし、東京電力はこういった状況を見捨て、計画では柏崎刈羽原発全7基を2016年までに全て再稼働するなんてことをぶち上げました。許されない!この7月には6号基、7号基を稼働するんだということを宣言しています。私たちは絶対に許しません!(拍手)そして国、安倍原子力帝国は何を考えているかと言うと、エネルギー基本計画の中において、原子力発電はベースロード電源だとか、基幹電源とかいろいろ言い方変えてますが、要するに原子力発電をこのまま存続する、そして核燃サイクルも動かすという宣言をしました。
そして規制委員会の田中俊一は、この3月中ごろまでには再稼働する原発を絞り込むというようなことを言っています。絶対に許すことは出来ません!東電への闘いは、この原子力帝国との闘いとなります!
本日の東京電力解体合同抗議行動、最後の最後まで福島の声を、そして私たちの怒りをこの東電にぶつけていこうではありませんか。(拍手)』

続いて参加者からの抗議スピーチが行われ、たんぽぽ舎、「反原発自治体議員市民連盟」などがスピーチを行った。
参加者は主催者発表で500名(実数はその半分程度か)。参加者の中には反原発ジグザグ会のヘルメット姿も見える。道路を挟んで線路寄りには私服らしき人たちがたむろしている。
抗議行動の最後は参加者全員でコール。
「原発反対!」「再稼働反対!」「被曝労働やめろ!」「ピンハネやめろ!」「汚染水とめろ!」「東電解体!」「子どもを守れ!」「命を守れ!」
怒りのコールが東電本社前に響き渡った。

<集会のお知らせ>
伊達判決55周年記念
「今こそ伊達判決を生かそう!」―危険な安倍政権に対する対抗軸をー
日時:2014年3月30日(日) 午後1時~5時(12時30分開場)
開場:明治大学リバティータワ1階大ホール(御茶ノ水)
内容:
○記録映画「流血の記録・砂川」
○基調講演「伊達判決の現代的意義と安倍政権の正体」
○特別報告「砂川事件再審請求の根拠と意義」
主催:現代史研究会・伊達判決を生かす会

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ボブ・ディランが今年の春に4年ぶり7回目となる来日ツアーを行うとのことである。ボブ・ディランの初来日は1978年だった。東京では武道館で公演が行われ、私も友人のK君と一緒に武道館の2階席から、スポットライトを浴びて遠くに見えるボブ・ディランを見ていた。
公演の1曲目は確か「ミスタータンブリンマン」だったかな・・・。
(写真は1978年のボブディラン来日公演のパンフレット表紙)

先日、NHKのプレミアムアーカイブスを見ていたら、こんな番組を放映していた。
ルポルタージュにっぽん「ボブ・ディランがやってきた」(1978年)
インタビュアーは、作家の村上龍氏。当時26歳。
テーマは<ディランを聴いて青春を模索した様々な人々に出会い、様々な人生を知りたい>
今回は、この番組の内容を掲載する。ボブ・ディランについての番組ではあるが、村上龍と様々なジャンルの人とのインタビューを通して、あの時代が見えてくる。
(文書が長くブログの字数制限を越えるため、No331-1からNo331-5に分けて掲載します。)


【ルポルタージュにっぽん「ボブ・ディランがやってきた」】NHK1978年放映

1 記者会見

スーパースター、Mrボブディラン!(拍手)
司会「大変にお疲れのところ 誠に恐れ入ります。私たちは、貴方の来日を長年待ち焦がれておりました。心から、歓迎の言葉を申し上げたいと思います。
かってはですね、反戦歌、いわゆるプロテストソングを主に歌われていたと思うんですが、愛をテーマにされた心境の変化というのはどういうことなんでしょうか。」
ボブ「プロテストの曲が、自分の一番素晴らしい愛の歌だと思っています。」
司会「一般にフォークの神様と言われていますが、そのことについては、どのようにお思いでしょうか。」
ボブ「私はフォークの神ではありません。」
司会「それでは何でしょうか。」
ボブ「ただの人間です。」

2 初日コンサートの様子

「やせっぽちのバラード」が流れる
初日の観客数12,000人。岡林信康・沢田研二・井上陽水・美空ひばり・駐日アメリカ大使夫妻などが公演を見に来る。
<字幕>
ボブディラン:1941年生まれ。20歳でデビュー。「風に吹かれて」「時代は変わる」「戦争の親玉」「ライク・ア・ローリングストーン」と世界中の若者に熱狂的な支持を得、一躍平和・公民権運動のオピニオンリーダーとなる。
日本の若者の文化・思想にも大きな影響を与えた。発売LP22枚、売上50億。

3 中山ラビ(フォークシンガー)(大学時代、ディランの歌を自ら訳しフォーク活動に入る。東京公演には連日足を運んだ。)

村上「同じ歌手としてね、ボブディランをどう思うか。」

中山「私、大真面目に音楽をやっていると思って、惚れ直しましたけどね。やっぱり、ああいうすごい人が、ちゃんと生きている、ちゃんと生活して生きている。」

村上「ミック・ジャガーなんか結構楽しく生きている感じがするんですけれど、あれはどうですか?」

中山「やっぱり、ディランだってそうなんじゃないんですか。」

4 児島鉄平・23(フォークシンガー)(高校時代ディランの歌に出会い、歌手になることを決意。)

「とにかく素敵だった。でも、それ以上は言いたくない。自分の一番好きな人を人前に晒しているみたいな、そんな感じで一生懸命見ていたから。結局、今日、日本にいるんだったら、日本に今いるディランが好きですね。」

5 泉谷しげる・29(フォークシンガー)(“ディランの子”と呼ばれる歌手の一人 代表作「春夏秋冬」「国旗はためく下に・・・」)

泉谷「えーっと、僕が聴いたのは68年くらいだと思うのね。その頃っていうのは、わりと学生さんがノリまくってて、西口周辺でドーンとやってった頃、始まる頃だよね。僕なんかもちょうど会社ひけて、すぐそういうところにワーと行ってね・・・」

(No331-2に続く)

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(No331-1の続きです)
(写真は1978年のボブディラン来日公演のパンフレットより)

村上「その頃は泉谷さんは(歌は)やっていなかったんですか。」

泉谷「いたずらではしてたけど、プロになろうとかそういう気はなくて、とにかく漫画家になりたかった訳よ。自分の職業というのはそれしか考えていなかったからね。音楽というのは遊びだと思っていて、その頃、ディランいいいいと言ってる訳、周りの奴が。分かんねえんだよ、とにかくどれ聴いてもグニャグニャグニャグニャ歌ってて、鼻水たらしたような歌を唄ってるでしょ。何でこんなのがいいの、と言った訳、俺は。生理的なところがいい、と言う訳。生意気言って、このー、という話になったんだけどね、そこで。」

村上「本当はものすごく好きなんでしょ。」

泉谷「ものすごく好きです。好きだから、かえって好きーと言いたくないというか、フンという感じで軽く見ていたいというか、本当はドキドキすると思いますよ。」

6 岡本おさみ・36(作詞家)(代表作「襟裳岬」「旅の宿」)

村上「ディランというのは好きとか嫌いで言えばどっちでしょう。」

岡本「僕はすごい好きです。」

村上「最初のコンサートに行かれたらしいですが、どうでしたか。」

岡本「僕はすごく構えて聴きすぎたと思うのね。一番初め。それで一部が終わるまで、すごく肩張っていた自分があって、たぶんファンだから緊張したんだと思うんですね。だけど、一部の休憩があった時に、向こうはすごく若返ろうとしているような感じを受けたのね。」

村上「ディランがですか?。」

岡本「うん、それで、お客さんは何かちっとも若返っていない・・・」

村上「ハッハッハッ、客の方が若返っていない。」

岡本「つまり昔のいっぱいいろんなものを引きずったまま来ているという感じがすごくあって、それで自分も一部が終わったところですごい気付いたのね。今日は二部はもっと楽に聴こうと思って聴きはじめたら、何か遥かなる歌の旅路というような、年齢みたいなものを全部超えちゃて、何か、あ、少年がいる、という・・・」

7 高橋三千綱・29(作家)(66~69サンフランシスコ州立大学に留学)

村上「3年間いたんですか、アメリカに?」

高橋「シスコにね、アメリカって言ったってさ、サンフランシスコだけだからね。」

村上「いつ頃ですか?」

高橋「えーっとね、66年から69年まで。西太平洋側の最大の学生運動が、ちょうど学生だったうちの大学だった。」

村上「あ、本当。」

高橋「ぶんなぐられてね。ちょうどベトナム戦争はなやかりし頃じゃない。だからボブ・ディランって聴いたけど、今、反戦なんて言われているみたいじゃない。そういう風にして聴いていたという記憶はないね。」

村上「向こうの人も?」

高橋「うん。」

村上「本当。やっぱり普通の歌として、日本で言えば井上陽水みたいな、そういう風に聴かれていた訳?」

高橋「そうだと思うけどね。」

村上「ガールフレンドなんかも、そういう風に聴いていた訳?」

高橋「ワインなんか飲みながら、流れているのはボブ・ディランとかさ。」

8 沢田研二・30(歌手)

沢田「前から5番目のアリーナだったですけどね、ほとんど正面で、顔もよく見えました。ボブディラン自身がすごく機嫌よさそうだったし、一部はちょっと眠たかったけど、二部は知ってる曲も3曲くらいあって、結構、見て良かったなと思いました。」

村上「そうですか。」

沢田「やっぱり大物ですしね。いちファンとして楽しんだということです。」

「風に吹かれて」が流れる
<字幕>
“男が男と呼ばれるまで 幾つの道を歩まねばならないか?
白い鳩が砂浜でやすらぐまで 幾つの海を超えねばならないか?
大砲を永久になくすまで 幾つの弾の雨がふらねばならないか?
友よ、その答えは風の中に舞っている。“

9 清水哲男・40(詩人)

「プロテストはプロテストなんだけれども、誰でもがどんな立場からでもイエスと言える、賛成できる歌な訳。だから党派を超えると言えばそれまでだけれども、歌で人生を考えるということはいいんだけれども、それをレコードなんかで、学生なんかが学校終わって帰ってきて、密室で聴いている訳ね。何か、そんなことしているより、麻雀でもして酒でも飲んで、もう少し具体的な人生にぶつかった方がいいな、という気もするのね。」

(No331-3に続く)

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