野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

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「週刊アンポ」で読む1969-70年シリーズの6回目。
この「週刊アンポ」という雑誌は、19691117日に第1号が発行され、以降、19706月上旬までに第15号まで発行された。編集・発行人は故小田実氏である。この雑誌には1969-70年という時代が凝縮されている。
1960年代後半から70年台前半まで、多くの大学で全国学園闘争が闘われた。その時期、大学だけでなく全国の高校でも卒業式闘争やバリケート封鎖・占拠の闘いが行われた。しかし、この高校生たちの闘いは大学闘争や70年安保闘争の報道の中に埋もれてしまい、「忘れられた闘争」となっている。
「週刊アンポ」には「高校生のひろば」というコーナーがあり、そこにこれらの高校生たちの闘いの記事を連載していた。
今回は、「週刊アンポ」第4号に掲載された都立青山高校闘争特集である。この特集には4名の青高生からの報告が掲載されている。
 
この記事の冒頭に1枚の写真がある。1969年10月10日、バリケード封鎖中の都立青山高校の建物の上で旗を振る全共闘のメンバーの写真である。この日は明治公園でベ平連、全国全共闘、反戦青年委員会主催の「ベトナム反戦・安保粉砕・沖縄闘争勝利・佐藤訪米阻止」大集会があり、デモ隊が青山通りに出る手前で青山高校の前を通った。その時の写真である。私もデモの隊列の中から彼らに手を振ったことを鮮明に覚えている。

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【特集 都立青山高校闘争の記録 週刊アンポNo4  1969.12.29発行】

 終わりなき戦いのためにー

 「9月14日、15日の機動隊導入に至るまでの戦いの経緯は『青高闘争―中間総括―(全共闘発行)』を見てもらいたいが、この掛西処分撤回闘争から機動隊導入までの過程でわれわれがおさえておかなければならない点は、やはり学校側の全闘委に対しての無対応さであろう(全闘委の闘いと全共闘結成まではベ平連ニュース10月号参照)。ただ単に。『全闘委は政治活動をする団体であり、学校としては認めていない』という理由のみで、全闘委の存在理由そのものを真に問い資すこともせず、大衆団交にも『つるしあげの場であるから』と一方的にきめつけて応じようともしなかった。そして全闘委の出した(掛西闘争、言論集会の規制、文部省手引書に関する)5項目質問に対しても『全闘委は非合法団体であるが全生徒の関心事でもあるので・・・』と放送を使って回答にもならないあいまいな回答、最後には『とにかくルールを守れ!』で終わる一方的通告をもって、明確な回答を拒否してきた。
 全闘委が6項目要求(大衆団交の場で前の5項目の回答と処分しないことの確約せよ)をもって校長に直接回答を求め校長室に入っても(9月12日、いわゆる校長室占拠の状態)校長はなかなかあらわれず、ほかの教師も『不法占拠だから出ろ』などと全く実質的内容を伴わない説得、あるいは話し合いを持ちかけてきた。さらに、自らが論理的に破産すると一方的に話し合いなるものを打ち切り、排除あるいは封鎖を解除するため機動隊を導入したのである(9月14日)。1名が不退去罪で逮捕された。これら一連の措置、話し合いを自ら拒否し暴力をもって、それも国家権力の暴力機構、機動隊を使っての生徒排除、封鎖解除は、教師自らの教育者としての立場の一切の放棄であり、そしてこの国家権力と学校との結びつきが今度の問題の本質を明らかにしていくものであることを忘れてはいけない。
<決定的な教師への不信>
 その翌日の15日、約500名の青高生が明治公園に集まり、機動隊導入の抗議と学校側の説明を求めるため、学校に向かった。校門前での『なぜ、機動隊を入れたのか』『なぜ、ロックアウトをして文化祭を中止したのか』『どうして自分の学校に入れないのか』という生徒の涙ながらの訴えに対し、学校側・教頭は、『説明は明日、青年館でやるからきょうは帰ってくれ』というだけで、あとはどの教師も沈黙を守るだけだった。そして午後2時頃生徒の手で校門がおしあけられると、再び学校は機動隊を要請し一般の生徒までも暴力的に排除した(学校側に言わせると誘導したということであるが、武装した機動隊によってなぐるけるの暴行を多くの生徒が受けたのは、厳然たる事実である)。ここにおいて集まった生徒の教師への不信は決定的なものとなり今まで多くの生徒の持っていた先生への幻想は完全に打ち破られた。翌16日に学校の予定していた全学説明会は『青年館がことわってきた』という理由で中止。各学年各クラスごとにバラバラにされて駒沢公園、新宿御苑などで分割HRなるものが開かれた(この時の各HRの開催場所の一覧表を警備の警官が持っていたという事実がある)。そして実情を知らない1,2年のHRなどでは教師が全闘委のデマ宣伝をするなど破廉恥な行為まで出て、学校側の実体をさらけだした。
<全共闘 結成される>
 そのあと明治公園において、われわれの手による集会がもたれようとしたが、『昨日のような事態をおこしたくない』という吉見教務主任の特別のはからいで校内中庭で集会がもたれることになり、実質的にその時からロックアウトは解除になった。そして、翌日からは全学集会あるいは縦割りHRがもたれ、学校側のあいまい性など、また問題解決への道などが追及された。そのような闘争の大衆的拡大の中で『機動隊導入自己批判・ロックアウト自己批判・一方的文化祭中止自己批判』の3項目要求をかかげ青山高校全学共闘会議が結成され全闘委は発展解消し青高生の闘う部分が結集した。また一方では『4項目要求(3項目の自己批判要求と非処分要求)を認めない限り授業再開を拒否する』という署名が200名集まったり、同じく4項目の要求をかかげ3年生の有志5人が150時間にも及ぶハンガーストライキを行った。これに対しても学校側は『彼らはどうせ何か食べているんだ』などどデマ宣伝をし、さらにはドクターストップがかかっているのに『面子があるから・・・』などと救急車を呼ぶことをしぶった。
<授業再開を阻止>
 全学集会において学校側は常にあいまいな回答をもってし、要求の回答というような形で出した『反省と決意』(べ平連ニュース10月号に全文を掲載)なる文章も『機動隊導入はあの時点でやむをえざる措置で誤ってはいなかった。そして今後不法行為をしないことを確約すれば処分はしない』つまり、今後あのようなことをしたら処分するぞ、学校は正しいんだという居直りでしかなかった。学校側が問題の本質が何であるかもはっきりさせないまま、なしくずし的に授業を再開させようとした9月29日、全共闘は3年全クラスバリケード封鎖に突入し、授業再開策動を阻止した。そしてバリケードの中ではわれわれ自身の手による文化の創造の場=自主講座を貫徹することになった(「圧殺の森」などの上映、折原浩氏らの講演、討論会のほかクラス別に歴史などの学習会があった)。その後、有志連合の提案による大衆折衝(全共闘対学校側・教師の討論を一般の生徒が聞き発言する)に臨むことによって問題の本質にふれていこうとした。
<機動隊に徹底抗戦>
 この時期になると、この問題が自己批判をすればすむ問題ではなく、今まで自らすごしてきた日常への問い返しであり、そして教育全体の問題であることを多くの生徒は感じていた。10月9日、学校は一方的に話し合いを中止した。大衆折衝継続か否かを問う生徒投票は411票対403票で打ち切りが多かったが、その後の自治会で大衆交渉という形で話し合いを続けることを決議した。しかし学校側は大衆折衝打ち切りの411票をたてに自治会の正式決定である大衆交渉までもけり、タイムリミットなどを打ち出すことにより授業を再開しようとした(10月13日)。全共闘は全学バリケードによってこれを阻止しようとしたが、教師、秩序派の生徒の暴力的妨害にあい、翌日からクラス闘争委員会によって散発的に教室バリケードが行われた(この頃、少ないところでは2,3人の生徒を相手に授業をやったクラスもあった)。教師はわれわれをなぐったり、床にたたきつけるなど暴力的に立ちむかいあるいは一部の生徒を扇動し内ゲバ的な状態までつくり出すなどの行為に出てきた。われわれはこの中でクラスストライキなどをかちとり、われわれの闘いを明確に全社会的なものとして位置づけることによって、10・10反安保集会に参加した。
 10月21日早朝、われわれが予想した通り、機動隊が導入された。バリケード内に残った学友が投石・火炎ビンで抵抗したが400人近い機動隊と10数台の装甲車、放水車そして催涙弾によってバリケードは解除され、中に残った4人は全員逮捕された。さらに学校の外でこれに抗議してデモをした学友のうち5人が公務執行妨害で逮捕された。学校はただちにロックアウトされた。
 その後、午後1時頃から約60人の学友が校門の前に集まり、機動隊導入に抗議、青高奪還をうったえてデモをし、数度校門にぶつかり、もろくも校門が開いたので学内で抗議のデモ・集会を行った。これに対して4度目の機動隊出動がなされ、7人の学友が逮捕された。この際、教師は生徒が学内に入ろうとするのをとめようともせず、機動隊がくるやいなや『あいつも学校に入った』と生徒を指名して逮捕させた。そして実際に学内に入っていない学友に対してさえ、建造物不法侵入で逮捕させた。
<さらに闘いをいどむ>
 すぐさま学校側は、われわれが実質的に学校へ近寄れない状況の中で、確約書をもって脅迫をしてきた。その内容は今までのわれわれの行動が一切まちがっていたことを認め、今後不法占拠・学内デモ・授業妨害・ルール違反などをしない、そしてもし確約に違反したらどんな処分もかまわない、というようなものだった。30日には退学1名と、あと17名が停学3日から無期という処分を出した。また一方では全校生徒に入構証(写真)をわたし、これを持っていない者は学内に立ち入れず、学内で何かルール違反、授業妨害をすればそれを取りあげるという措置を出してきた(もちろん全共闘の多くー約50名には発行されていない)。そして学校側に言わせれば確約書を出す余地を与えたのが譲歩であり、これが教育的配慮なのである(確約書を出しても入構証が発行されていない人も多いー確約書は保護者、保証人の連署になっているが、子供が同意していないとの理由で発行しない)。要するに徹底的にわれわれの闘いを圧殺しようとしてきた。父兄も確約書が出されると例の通り、とにかく卒業という方向で生徒に無断で確約書を出すなどしてわれわれに敵対してきた。現に、10・21の不法侵入で6名の学友に逮捕令状が出され、3名がつかまってしまった。そして13名の学友は不当にも拘留期限が延長され、(延長の根拠はまったくはっきりしない)いまだ獄中にある(11月中旬現在)。
われわれの闘いは苦しい。だがわれわれは闘っていかねばならない。闘争の放棄は日常性への回帰であり、人間であることの放棄であるからだ。学内と学外を分断された中で、われわれは自らの自覚をもって多くの生徒の中に浸透していく闘いを組み、明確にあらわれた学校の欺瞞性に対し闘いをいどんでいかなければならない。」
(岩本真理)

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一人一人の生き方の中で

 「今、僕らにとって必要なものは、3ケ月以上に及ぶ青高闘争の総括でも敗北の手記でもない。それは僕らが個々の実力闘争の中で、考え、悩み、そして苦しみながらも自己に課してきた『自分はどう生きるのか?人間的に生きるとはどういうことなのか?』といったトータルな命題から必然的に発するであろう自分自身の『闘争宣言』なのだ。
 10・21の徹底抗戦以来、学内外暴力が一体となった全共闘弾圧―いわゆる正常化―の中で僕らの運動体は一定程度、後退を見せていった。学内の集会はすべて指導課の許可を必要とし、破った者は学園から放逐し、何かをおこそうとすればすぐに機動隊がやってくるといった、徹底した弾圧の中で、僕らの心の中には敗北感が日ましに強くなっていった。
 しかし、闘いは終わらない。なぜなら僕らは少なくとも僕は、自分のために戦ってきたのだ。人のためなどとは決して言うまい。僕のやってきた数々の行為はすべて自分のためなのだ。だからこそ、僕はあれだけラディカルな行動がとれたし、その後にあった弾圧の中でも耐えられたのだと思う。教師を追求する時、そのほこ先は必然的に僕自身にも向けられていった。僕らが追及した問題は一部の意識した部分のものではない。現代という時代に生きるすべてのひとびとの問題なのだ。
 これから僕らは闘争の中で追求した命題故に、いろいろな道を歩んで行くだろう。しかし僕らは決して青高闘争を忘れない。僕らはこれからの青高闘争を一人一人の生き方の中で示していくだろう。僕ら一人一人の命が続く限り、青高闘争は不滅なのだ。」
(3年 N)
 
燃え広がる「神宮の炎」

「10・21の午前、ロックアウト状態の学校正門前に結集したわれわれは、デモ隊列をつくり正門を打ち破って校内に突入し、校長室前において抗議集会をかちとった。しかし、学校の要請でやってきた機動隊は全員逮捕のかまえ。われわれはいち早く外へ逃げ出したものの、逃げるわれわれを教師は追いかけ、警察と一体となって5名もの教え子を逮捕したのであった。
 それから1週間、学校当局の出した活動報告書にもとづいて6名に逮捕令状が出され、3名が逮捕されたが私をはじめとする3名は現在潜伏し新たな闘争を組むべく徹底的に闘う決意を固めている。
 たとえ、有刺鉄線がはりめぐらされようと、牢獄につながれようと、資本主義体制が変革される日まで圧殺されることはないだろう。なぜならわれわれの闘いは歴史の中にその力強い息吹があるからである。その歴史とは、今の文部省検定の教科書にあるような“歴史”ではなく、われわれ自身が作り上げていく人民の歴史にほかならない。
10・21以降の青山高校では文部省―都教委―学校という露骨な権力機構により、まわり中有刺鉄線や高い鉄板が打ち立てられ、検問所にいる暴力団のごときガードマンによって生徒は一人一人、入構証をチェックされていた。毎月、毎日の授業は以前と変わらぬ無対応ぶりで、その中に、われわれの向学心を満足させるものは、何一つない。教育の場としては考えられないようなアウシュビッツ化した強権力的弾圧体制の中に機械的に行われている授業を、学校当局は“正常化”と発表した。たとえば『入構証に対する批判はしてはいけない。なぜなら、諸君は入構証を使って学校に入っているではないか』というような、まったく論理的に破産していることを平然と恥ずかしげもなく発言した。
 11月28日、あの鈍く光っていた高塀が強風によって倒れ一人の学友が重症を負う事件が起こった。われわれは、彼一人の事故が単なる偶発的事故ではなく、1,200名の生徒一人一人に対する『人間性の抑圧』を如実に普遍化しているものとしてとらえ、必然的事件として学校側の責任を追及した。高塀、有刺鉄線は数百名の学友の手によって打ち倒され、入構証はその場で焼かれていった。
 実質的にその時より入構証=検問制は撤廃され、高塀、有刺鉄線はあとかたもなく消えた。翌日、われわれは断固として授業ボイコット、集会を貫徹した。それ以降、生徒会などの合法機関と非合法活動を有機的に結合しながら、生徒心得11項(掲示、出版、放送、集会)の完全自由を追求しつつ、冬の闘いへと闘争を飛躍させている。
 ますます激烈化する日本階級闘争の一翼として高校生運動の発展する現在、権力は青高全共闘を圧殺することによって運動総体を圧殺しようと考えていた。しかし、青高全共闘が物理的に敗退したところで、権力の破産した論理を越えた。われわれの思想性は青山により強固な全共闘を作り出し、全国の高校に次々と、『神宮の炎』(青山高校は明治神宮の神宮前一丁目にあり「神宮の炎」は青高全共闘の機関紙の名前である)は燃え広がっている。今や教育体制総体、さらには全世界の階級情勢が激動している。それを世界資本主義体制の危機的情況として明確に把握するならば、この体制解体の運動はさらなる発展をとげるだろう。われわれはそれを確信し全国450万高校生と連帯して断固として闘い抜くことを宣言する。」
(3年 太田真紀)

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獄中からの便り

「11月1日午前7時、僕は寝覚めを襲われた。逮捕令状の犯罪事実は『建造物不法侵入』証人は教師だった。僕は留置所にぶちこまれた。『異常だ!』。うすっぺらなゴザ1枚とちり紙1枚のほかはなにもないこの1畳足らずの区域から一歩足りとも出ることができない。あらゆる自由を奪われ、体中に鍵がかけられてしまったようだ。常識のなかに埋もれ、マスコミ的自明性のみを自らの存立基盤としていた教師を告発し、その様な生き方を拒否することを決意したわれわれの行動に、こんなにもひどい制裁が加わったことの異常性に、僕は驚いた。しかし、よく考えてみるとそんなことに驚いていてはいけないということに気付く。このような力による弾圧があったときの“異常”ではなくて、そのような“異常”をたえず陰に秘めて、虚偽の繁栄と安定を誇る日常こそ、驚かなければならない。目前の小さな目的に全てを押し縮めることによって体制に包摂されていってしまう、あの日常の授業―その中にこの自分も何の疑問もなくいたことに、秘かな恐れを感じる。僕はここに至って、一つの無謀な二者択一をせまられた。すなわち、『僕が異常か、それとも日常が異常なのか』ということ。
 われわれは、日常の外被をこの2ケ月間あばいてきた。あらゆる人間がその存立基盤=社会全体との関係を無意識的に肯定し(紛争が起こると意識的になる)それを前提として生活している。その時、社会全体との関係とは、各個人が『自由』に選びとったもので、一見、全く小さな個人的な問題として現れてくる。しかし、社会全体の諸矛盾は社会全体の諸関係によりひき起こされるので、ある特定の人間や“個別の制度”を改めれば解決されるのでは決してない。そこである職能に従事する人間がその職能の矛盾を発見したとき、その大きな問題の前に思わずボーゼンとしてしまう。従って多くの人間は、その困難な課題と存立基盤を肯定したときの“安楽な生活”とをてんびんにかけて、無意識的に後者を選んでしまうのだ。
 しかし、僕はどんなに苦しくとも、前者をとることを決意した。その決意はバリケードが撤去されようと、逮捕されようとかわらない。むしろ、僕は監獄へ放りこまれた現在、この日常をこの監獄の重みをもって語ることを覚えた。あの楽し気な笑い声の聞こえる教室は監獄だ。『教育者』という高貴な名称をもった教師は看守だ。そして、社会のさまざまな監獄へ、生徒を囚人としてふりわけるのだ。」
(荒厳創)
 
以上、「週刊アンポNo4」に掲載された記事である。
記事の冒頭に「9月14日、15日の機動隊導入に至るまでの戦いの経緯は『青高闘争―中間総括―(全共闘発行)』を見てもらいたいが、この掛西処分撤回闘争から機動隊導入までの過程でわれわれがおさえておかなければならない点は、やはり学校側の全闘委に対しての無対応さであろう(全闘委の闘いと全共闘結成まではベ平連ニュース10月号参照)。」という文章がある。
闘争の経緯を知るために、2012年に発行された「高校紛争1969-70 闘争の歴史と証言」(中央新書:小林哲夫著)から関連の部分を引用する。

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「機動隊導入から9ケ月ほど前の1969年1月26日、『青高反戦会議』の結成を伝えるビラが撒かれた。青高反戦会議は、中核派系の高校生組織『反戦高協』とつながりがあった。
ビラでは2月11日、建国記念の日に開催する紀元節復活反対高校生統一集会への参加を呼びかけている。実際に当日の集会、デモでは、青山高校の生徒一人が逮捕された。(中略)
さて、年度が変わり、4月1日に入学式に合わせて青高反戦会議は反戦集会を開いた。2月12日には、90人が実力テストをボイコットする。26日に、中核派幹部北小路敏の講演を校内で無断開催。28日、反戦高協の他高生130人が校内に入り、無断で集会を行う。
8月31日、静岡県立掛川西高校での生徒退学処分に反対する抗議行動に、青山高校の生徒8人が参加する。掛川西高校は、6月に伊豆で行われたアスパック会議(アジア・太平洋協議会首脳閣僚会議)反対闘争に参加した生徒に退学処分を科しており、この処分をめぐって同校は紛争の最中だった。このとき、青山高校の2年生Sがロックアウト中の掛川西高校に突入し、3階の教室の窓から反戦高協の旗を振り、不法侵入で逮捕される。
 Sの逮捕を知った青山高校からは、教頭とSの母親、そして担当教諭の長坂が掛川西高校、掛川署を訪問した。(中略)9月2日、青高反戦会議は、全学闘争委員会(全闘委)を結成する。全闘委は、『教頭らはなぜ掛川西高校へ出かけたのか』などのついて公開質問を行った。学校は、『全闘委は学校が正式に認めた団体ではない』として回答に応じなかった。」
というのが経緯である。
 
都立青山高校闘争の「その後」については、週刊アンポNO12に記事が掲載されているので、次回、その記事を掲載する予定である。
 
ブログ記事に関連して、ホームページに都立青山高校闘争のアジビラを掲載した。
 
明大全共闘・学館闘争・文連
 

「週刊アンポ」で読む1969-70年シリーズの5回目。
この「週刊アンポ」という雑誌は、1969年11月17日に第1号が発行され、以降、1970年6月上旬までに第15号まで発行された。編集・発行人は故小田実氏である。この雑誌には1969-70年という時代が凝縮されている。
1960年代後半から70年台前半まで、多くの大学で全国学園闘争が闘われた。その時期、大学だけでなく全国の高校でも卒業式闘争やバリケート封鎖・占拠の闘いが行われた。しかし、この高校生たちの闘いは大学闘争や70年安保闘争の報道の中に埋もれてしまい、「忘れられた闘争」となっている。
「週刊アンポ」には「高校生のひろば」というコーナーがあり、そこにこれらの高校生たちの闘いの記事を連載していた。
今回は、「週刊アンポ」第6号に掲載された「高校生のひろば」の中から鳥取県立由良育英高校からの報告を掲載する。

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【由良育英高校における不当処分撤回闘争 週刊アンポNo6  1970.1.26発行】
 県立由良育英高校は、鳥取県の中部、大栄町にある普通高校です。この学校で11月の初め、文部省見解が出された直後に不当な処分が出されました。今もまだ、撤回闘争は続けられていますが、その中間報告をしたいと思います。
 10月28日、3人の生徒が学校をサボッて上京しました。3人はそれまでデモに出たなどの理由でしばしば学校側から注意を受けていました。家庭でも、そのことで口論が絶えず、とうとう、飛び出してしまったのです。
 11月7日、3人が帰郷し、父兄同伴で登校しました。3人は学校をサボッたことを反省していること、東京では政治活動をしなかったこと、などを言いました。学校側はそれに対して、その日の授業に出席しないように指示しました。しかし、3人は、出席できないという理由はないとして、出席しました。
 ちょうどその日、PTAの役員会が開かれました。その場で学校側は、「一部生徒の政治活動と学校側の指導要項」というパンフレットを配布しました。その中には、3人の上京を、はっきりと、政治活動のために上京した、として扱ってありました。このパンフレットは教頭が印刷したものでした。このデタラメなパンフレットのおかげで、PTAの役員たちは、「3人を退学させろ」と言ったようです。
 11月12日、3人に、無期停学の処分が出されました。驚いた3人の父兄は、直ちに校長に抗議しました。
 あくる日、30人の生徒が、校長に処分理由の説明を求めました。学校側はそれに対して、処分理由は、8日間の怠学行為だ、と言いました。また、PTAに配布したパンフレットはまちがいだったと認めました。しかし、教頭が「PTAの役員会では退学という声が多かったが、校長先生は人格のある方で、無期停学に決まった」と言ったため、生徒はカンカンになりました。PTAの役員会での声はデタラメな印刷物で作られたものだったからです。

<コロモの下から出たヨロイ>
 このあたりから、3人の処分は活動家に対する不当な政治的処分だということが、あらわれてきたのです。
 11月17日、日本海新聞社が、処分問題を取材に来ました。すると学校側は、あわてて職員会を開き、3人の処分を解除しました。この処分は、世間に知られると困るようなものだったのです。処分を解いた理由は、3人が十分に反省しているから、ということでした。しかし3人は学校の不当な処分に腹を立てて、反省文も書いていなかった。一人だけは書いていたが、その文には学校を批判する内容だけが書いてあった。停学中、一度も先生に会っていないものもいた。
 あくる日、日本海新聞にこの記事がのると、他の新聞社も取材に来ました。そのころ、あるPTA役員は、彼らと話し合って、処分が不当だということを理解してくれました。しかし、その後、PTA役員は、問題をうやむやにしたままでことを荒立てないように努めたのです。
 このころ、3人のうち1人、O君の家に、「おまえら家族が由良育英高校をこわしてしまう。脳天を割ってやる」という内容の、脅迫電話がかかってきた。かけた者は、少し酒に酔っているようでした。
 11月20日、代議員会で、この処分問題について臨時生徒総会を開くことを決定しました。大多数の生徒にも、これがただ単なるいましめのための処分でないことがわかってきたのです。
 11月22日、学校側は職員会で、生徒総会を開かせないことを決定しました。学校は、問題をもみ消そうとしたのです。
 11月24日、一部の学生の手によって、学校の決定に対する抗議集会が計画されました。しかし、急なことでもあり、わずか4、5クラスの生徒にしか、それを知らせることができず、場所もあいまいでした。それにもかかわらず、約50名の参加者があり、処分の実態を知らせることができました。同時に、代議員会で、生徒総会を開くことが再確認されました。しかし、その後も、学校は生徒総会の開催を許しませんでした。
 11月29日、島根県内の高校生の組織である、「島根県高校生共闘会議」としては、由良の問題は高校生全体の問題であるとして、大栄町由良で集会を開き由良育英高校までデモをしました。この集会に対しても、学校側は、裏工作をして集会場を借りられないようにしたのです。僕たちは、やっと借りることのできた農家の倉庫の2階で集会をひらき、約40名でデモ行進をしました。これに対して、由良の教師は、学校の入り口にピケを張ることしかできませんでした。(写真)

<生徒総会で処分の白紙撤回を求める決議をする>
 12月15日、無為無策の生徒会執行部に業をにやした7人の生徒が、ハンストに突入しました。あわてた学校側は、生徒総会を開かせることを約束しました。7人はその日の夕方には、要求を勝ち取って、ハンストを解除しました。
 12月19日、待望の生徒総会が開かれ、不当処分の実態を全校生徒に知らせることができました。その結果、処分を不当として白紙撤回を求める決議がなされました。
 その後、学校の態度は、まだ決まっていません。しかし、本当の闘争は、今始まったところだと思います。今回の処分は、東大闘争の発端となった不当処分のミニュチュア版といえるでしょう。
 今や、生徒管理に失敗した哀れな校長は、ご飯がのどを通らず、ビスケットばかり食べているそうです。もう、生徒を押さえつけることはできません。今後のなりゆきを見守ってください。
(鳥取県中部高共闘 T)


以上、「週刊アンポNo6」に掲載された記事である。
ブログ記事に関連して、ホームページに高校闘争のアジビラ2枚を掲載した。
福島県立磐城高校と福島県立磐城女子高校である。

明大全共闘・学館闘争・文連

このアジビラ見ただけでは、どういう闘争だったのかわからないので、2012年に発行された「高校紛争1969-70 闘争の歴史と証言」(中央新書:小林哲夫著)から引用する。

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『磐城高校
三里塚闘争とは、千葉県三里塚・芝山地区に建設を予定された成田空港に対する、地元農民の反対運動をいう。1966年に着工してまもなく、新左翼党派が地元農民を支援するようになった。71年9月16日には反対派による火炎ビン、投石、鉄パイプなどの襲撃で機動隊3人が死亡している。その地名から、東峰十字路事件と呼ばれる。
 71年12月4日。福島県立磐城高校では、教員60人が校内に張られたテントを次々と引き倒していく。テントにしがみつく生徒をかかえこみ、校門まで運び出した。校庭に怒号、悲鳴が響いた。
 きっかけは、9月16日の三里塚闘争に生徒5人が参加したことである。学校はこの5人に1週間から10日間の停学処分を科した。しかし、処分を受けた生徒のうち数人は登校し、処分撤回を求める集会。デモを行った。
 学校側はリーダー格の生徒(以下、リーダー)に無期停学を言い渡す。この間、全学闘争委員会(全学闘)が結成された。11月、全学闘の生徒は校内にテントを張ってハンストを行う。12月4日には校長室に乱入して大衆団交を求めた。しかし、学校はハンストを続ける生徒を退去させた。全学闘のビラは12月4日の様子をこう伝える。テントに「しがみつく生徒を蹴り上げ大勢でテントもろとも引き上げ校門までかかえこんで投げ落とすという暴挙を、信じられない程やってのけた」。
 12月6日、学校はリーダーを「正当な理由のない無断欠勤」で退学処分にした。
 リーダーはすぐに、「無断欠勤」は事実誤認、政治的思想弾圧、教員の職権乱用であるとして、福島地方裁判所に処分の撤回を求める訴訟を起こし、学校長を告訴した。72年5月、福島地裁は訴えを却下する。その理由の中には、「三里塚闘争に参加したことが欠席という所為の中に含まれているとしても、それをもって、欠席を正当化するものと認められない」(『判例時報』677)とのくだりがあった。三里塚闘争は学校が禁止している政治活動なので、正当な理由にならない、ということだ。79年に仙台高裁は福島地裁の一審判決を支持、最高裁は書類審査で却下した。
 なお、12月4日のできごとについて、福島地裁は判決理由で「学校側は実力でテントを撤去し、これにしがみつく原告らを校門外に排除した」と言及している。全学闘のビラに記された「暴挙」について、多くの生徒が目撃している。こうしたことが学校に対する不信に結びつき、これまで政治に関心がなかった生徒も運動に関わっていった。(中略)なお、退学になったリーダーは、現在いわき市議会議員を務めており、反原発運動に取り組んでいる。』

【お知らせ その1】
10・8山﨑博昭プロジェクトでは、2017年1月にベトナム・ホーチミン市のベトナム戦争証跡博物館で「日本のベトナム反戦闘争の記録」展を開催するため、クラウドファンディングを始めました。
今まで、プロジェクトの事業を進めるために、賛同人を募集し、賛同人の方からは賛同金をいただいていますが、この賛同金は、趣意書に書いてあるモニュメントの建立と記念誌発行のためのものであり、新たな企画であるベトナム戦争証跡博物館における展示の費用は含まれていません。
このベトナム戦争証跡博物館での展示にあたっては、資料の翻訳、資料のベトナムへの輸送、展示準備のためのプロジェクト代表者等のベトナムへの渡航費用など、かなりの費用が見込まれます。
そのため、今回、ベトナム戦争証跡博物館での展示のためのクラウドファンディングを始めたものです。
 クラウドファンディングの詳細は下記のアドレスからご覧いただくとともに、是非とも多くの方のご協力をお願いいたします。

【クラウドファンディングのページへGO!!】

ご協力をいただいた方には、お礼として、発起人である山本義隆氏の著書「私の1960年代」(要望に応じて自筆サイン入りも可)などを用意しています。

【お知らせ その2】
来週のブログとホームページの更新はお休みです。
次回は9月16日(金)の予定です。

「週刊アンポ」で読む1969-70年シリーズの4回目。
この「週刊アンポ」という雑誌は、1969年11月17日に第1号が発行され、以降、1970年6月上旬までに第15号まで発行された。編集・発行人は故小田実氏である。この雑誌には1969-70年という時代が凝縮されている。
1960年代後半から70年台前半まで、多くの大学で全国学園闘争が闘われた。その時期、大学だけでなく全国の高校でも卒業式闘争やバリケート封鎖・占拠の闘いが行われた。しかし、この高校生たちの闘いは大学闘争や70年安保闘争の報道の中に埋もれてしまい、「忘れられた闘争」となっている。
「週刊アンポ」には「高校生のひろば」というコーナーがあり、そこにこれらの高校生たちの闘いの記事を連載していた。
今回は、前回に引き続き「週刊アンポ」第1号に掲載された「高校学園祭の本質をつく」(神奈川県立平塚江南高校、都立大付属高校、都立駒場高校)を掲載する。


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【高校学園祭の本質をつく その主人公たちの主張と全国高校学園祭の実態アンケート 週刊アンポNo1 1969.1.17発行】
  高校問題、いまや大学問題以上に大きな問題となりつつある。だがその報道はヘルメット、バリケード、封鎖、さらには火炎ビンと、現象面だけが追われ、その背後にある問題点や、高校生の考え方、主張はほとんど問題にされない。
 「紛争」がおこるとマスコミにはのるが、その「紛争」がなぜおこったのか、高校生がなぜ激しい形の闘争に訴えざるをえなかったのか、その原因や経過は闇に葬られる。
 たとえば文部省のモデル高校とされている神奈川県立平塚江南高校の場合を見てみよう。「紛争」は今年の三月、文化祭の内容をめぐっておこった。

<戦後の沖縄はご法度>
 ―各研究会は4月に入って、校長との対談(通告)を行い、その場で沖縄研究会は「戦前の沖縄は発表してよいが戦後の沖縄はいけない。B52の写真は貼ってはいけない。」という通告を受け、また安保研究会は「安保問題を研究することそれ自体いけない」という通告を受けた。学校側はその後各研究会の個人攻撃を始めた。
 -攻撃は家庭への直接電話、名目を変えての父兄の呼び出しと多彩(?)をきわめ、研究会のメンバー(総員23名)は半数以上に減っていく。第2回目の校長対談(通告)がその後行われた際、「沖縄については観光と風土ならよい。安保研は認めない」といった発言が出るにいたって今回の問題は爆発し・・・(以上「ベ平連ニュース」9月号)
 こうして江南高の闘争は始まってゆく。戦後の沖縄を観光と風土とだけで研究させようとする文部省モデル指定高。常識ある高校生がそれに反発するのはまったく当然であり、こうしたことが許されている高校のあり方自体に問題の焦点がさらに向けられてゆくのもまた当然といえよう。
 いや、最近、新聞ダネとなっている「紛争高」とは、抑圧に対して抗議する余地が与えられているところだ、という見方もできよう。「紛争」のおこっていない高校のほとんどは、問題意識の萌芽も巧妙に摘みとられているともいえるのだ。

<闘争の契機としての学園祭>
 今号では、こうした高校問題の激発の契機となる学園祭、文化祭に焦点を合わせた。さきの江南高校の例のように、学園祭における高校生の研究発表や主張に対する制限、圧迫さらには弾圧が、高校生たちの強い抵抗や反撃の契機をつくり出しているからであり、それを通じても今の高校がもっている問題点の一端を明らかにしうるだろうからである。
 文部省のモデル高に対し、高校生はどんな文化祭、どんな学校を理想として追求しているのか、この秋、学園祭をもった高校の中から、その主人公である高校生自身にそれを語ってもらおう。また別掲のアンケートは、高校生がそれぞれの学園祭をどう見るかを明らかにしている。
(注:アンケートは省略)

【マヌーバーとしての自主管理 都立大附属高校闘争委員会】
われわれの高校の文化祭=記念祭は、今までもその運営方法、内容等で他校の文化祭とはかなり違ったものだった。というのは、各高の文化祭で去年あたりから問題になってきた文化祭の生徒による自主管理が、完全とはいえないまでもある程度行われてきたからだ。
 (違った見方をすれば、学校当局がそういうことを保障してくれていたとも言える)例えば、展示、劇の題材、内容については全く自由であったし、教師は学校管理者立場からの干渉は行わなかった。また、予算、会計等の事務的な準備、仕事、全体の行事(歌声、ファイヤー等)は、生徒の選挙によって選ばれた記念祭執行委員長とその執行部、あるいは展示、劇等を行うクラス、サークル等の代表者によって構成される代表者会議に任されていた。代表者会議によって、記念祭3日間の生徒の下校時刻等が決定され、それらについて全生徒を代表した執行部が教師と折衝を行っていた。展示の内容としては、かなりの部分で安保、沖縄問題等、政治的社会的問題がとりあげられてきた。だからすべてが生徒の自主管理とは言えないにしても、われわれの記念祭は、昨年まではある程度の自主管理が保障されていたのだ。つまり進歩的な教師は生徒を信頼して記念祭の運営をまかせ、生徒の自主性を尊重していくこととされ、また、生徒にとっては自由と自治ということで、生徒=高校生のまさに人間的な権利という部分で評価し、かつ正当なこととし、政治的、社会的な部分の問題をも考え、行動していくということだった。

<「民主的」の意味するもの>
 これは一見正しく、教師も生徒もこの学校自体も実に民主的、進歩的のように見られるのではあるが、そこからごく自然に発生してくること、それが問題なのであった。すなわち、ある程度の自主管理を保障するという、ぬるま湯的情況がそれなのである。
 つまり、記念祭を行っていく過程の中で、自主管理がある程度できる、自由に題材を選んで研究できるということで安心し、満足してしまうのである。この危険性は、満足感の中で多くの一般生徒を無気力化し発展性をなくさせる。たとえば、文化祭闘争はもとより、政治的スローガンをかかげる闘争が一切黙殺されていくようになる恐れがあるのである。
 学校当局がある程度の自主管理を認めるということは、実は汚いマヌーバーなのである。つまり、生徒に学校当局がある程度の自由を認めておけば、生徒の中にいくら有力な指導者があらわれて完全自主管理要求や、教師の管理者的立場を糾弾しようとやっきになっても、生徒はついてゆかないだろうという思惑があるのである。このやりかたは、記念祭の自主管理という問題だけではなく、われわれの高校においては多くの面にみられたのである。
 しかし、今年は、記念祭直前にわれわれ附闘委で現体制内の学校存在そのものを問題にして“バリ封”を行ったことによって、学校存在そのものの中での行事として行われようとした記念祭の性格が鮮明に浮き彫りになったのであった。

<自主管理にさらに造反>
今年の記念祭においては、まず記念祭執行部は徹底した自由参加を提起した。つまり、多数決によって参加形態を決める“クラス参加”というものを一切排除し、学年、クラス、クラブを越えて、各個人が自発的な記念祭に対する参加形態を考えだし、一致したものどうし結合していく形にしたいと提起したのである。それによって執行部がトータルな管理をするというのではなく、そのサークル、グループが記念祭において、自分たちの研究行動等を管理するということが同時に提起されたのであった。つまり自主管理といいながら、執行部の管理のもと安心して記念祭を行ってきたサークル自身が実にその名通りの自主管理を提起したのであった。
 これと並行し、附属高闘争委員会のメンバーは、現在の高校のあり方、教師の立場の持つ欺瞞性に大きな疑問を投げかけバリケードストライキに入った。そして、そいういった闘争を通じた記念祭の本質をも問われてきたのである。それで、記念祭実行委員長は「究極的にいって記念祭はやはり学校行事となっているのであり、そういった認識の下でこれまた定例行事である生徒大会で学校当局や自治会によって委員長に選ばれたこと自体が徹底的な自己批判にあたいする」とし、委員長を辞任したのである。それと同時に彼は新しく一人の人間として先進的に記念祭を創り上げていく試みを行おうとしたのだ。
 しかし、記念祭は結果的に準備不足などが重なり、展示を中止したり、延期を要求するサークルが続出した。が、ともかく記念祭は挙行された。しかし、内容的に2、3年生の参加が少なくて1年生が圧倒的に多く、さらには内容も喫茶店とか金魚すくいなどが多く、3年生の一部には記念祭を秋祭りにせよとの声まで出る始末であった。実際に今年の記念祭はついに秋祭り化してしまった。

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【学園祭は誰のものか 都立駒場高校ベ平連】
 ぼくらは高校にはいってから今年で学園祭を2回経験したわけである。この紙面をかりてその総括とこれからの展望を行い、学園祭の本質的な価値をぼくら自身で確認してみたい。まず、総括の上で明確に言えることは、「何の目的で学園祭を行うのか?」「学園祭とは何なのか?」「誰のための学園祭なのか?」という根本的な自分自身への問いかけが声を大にして行われずに、今考えればまったくナンセンスなことであるけれども、主体性のない学園祭を続けてきたことである。つまり、この十何年来学校の行事スケジュールのひとつとして存在し、やって楽しい、見て楽しい、学園祭が終われば空虚感だけしか残らず、他には何もないという単なるお祭りでしかあり得なかったことだ。そして、もっと集約的にいえば、それは学校生活の日常性の象徴としてしか現れてこなかったことだ。それゆえに「クラスの親睦」ということばなどでごまかしてしまう。なにも学園祭を「クラスの親睦」のための最頂点におくことはないし、そういった限られた位置におかせる現在の高校教育機構にも問題がある。事実、今年出されたわが校の学園祭の目的と呼べるものであった「クラスの親睦」も、前述した通りの確固たる目的ではなかったために、漠然とした義務感と、お祭りごとなら何でも結構という気持ちとでやっと活動を始め、小器用に形だけは整えたが、結局一部の人間の親睦になってしまったのである。
 また、学園祭が日常性の象徴であることの大きな理由には、校内で行われる学園祭が自分の学校以外の社会とは何の関連もない、ということがある。青山高校のように自分の学校に問題が起こらない限りは、ベトナム戦争が起こっていても、自衛隊が治安訓練を行っていても、学園祭は行われるのである。はたしてこのように高校を社会から切り離し、一時の平和気分につかっているだけでいいのだろうか?大学の受験制度の中にあって、その気分転換のためのひとつの享楽でしかないものとして学園祭を形骸化してしまっていいはずは絶対にない。そこでぼくらは今年の9月21日の日曜日、「考える学園祭」として問題提起の形で“ベトナム反戦、沖縄闘争勝利、安保粉砕”を問題事項に取り上げ、外部からはフォークゲリラを招いて学園祭中の中庭において集会を持った。既成の学園祭に対する告発というだけでこの集会を持ったわけではないのだが、結果として決してこの集会は満足しえるものではなかった。政治的な目的も、同じ日に同じ場所で集会を開いていた全共闘準備委員会(その目的は青山高校連帯集会であった)と同様に充分に果たされたとは言えなかった。なぜならば、残念なことに一般生徒の意識の高揚がその段階まで達していなかったからである。
 さて、最後には展望として、これからの学園祭というものを考えていかなければならない。今まであげてきた問題点を克服するものは究極的には各自の主体性である。大学はマンモス化されて個々の学生の立場が反映されないのに対し、高校こそはそれが十分発揮される場所であるいという事実があり、それにぼくら自身の自発性をプラスして、行動を起こしていかなければならない。


以上、「週刊アンポNo2」に掲載された記事である。
この3つの高校の闘争はその後どうなったのか?
2012年に発行された「高校紛争1969-70 闘争の歴史と証言」(中央新書:小林哲夫著)から引用する。

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<神奈川県立平塚江南高校>
『1969年6月、神奈川県立平塚江南高校で2人の活動家が「江南反動体制についての、校長の全面自己批判要求」を求めてハンストなどを行った。彼らが沖縄問題を研究しようとした際、学校側から「戦前の沖縄は発表してもよいが、戦後の沖縄発表は許さない。B52の写真も発表してはならない」「安保問題を研究すること、そのもの自体、いけない」と言われたことへの抗議だった。ビラで校長を批判している。
「この時から学校側の個人攻撃が始まった。各研究会の個人に対し、校長から家庭への直接電話、名目を変えての父兄の呼び出し等々というやり方でそれは行われた」(「高校生は反逆する」三一書房、1969年)
 11月13日、2人は用務員室に入り、宿直代行員を縛って監禁したあと、屋上に立てこもり校内民主化を訴えた。警察が待機していたが、学校側は2人を説得して屋上から連れ出した。その後、校庭で2人を交えて、生徒400人で集会を行っている。
 2日後、学校はこの2人に退学処分を科した。封鎖を行った公立高校にあって、短い期間でこれほど厳しい処分を科したケースはめずらしい。「封鎖事件の経緯について」で校長はその理由をこう記している。
 「職員会議の席上、職員の発言の中に『生徒はノイローゼになりつつある』との意見もあり、その時私は即座に意を決した。このような状態はまさに県下某高校におこったような不幸な事件―それは生徒の生命に関わる重大事態であるーをまきおこす雰囲気にはなはだ似通ってきていると判断した。私としてはこのような事態を放置しておくことはできない』(「神奈川県立平塚江南高等学校 創立50周年記念誌」1973年)』

<都立大附属高校>
『都立大附属高校は69年3月、9月、70年6月、10月の4回にわたる封鎖、72年の授業妨害など、紛争は長期化した。にもかかわらず、機動隊の導入は一度もない。封鎖に関連した厳しい処分もなかった。これは、教師のあいだで一致した考えがあったためだった。
69年9月、学校は生徒にこう話している
「機動隊を要請することはない。要請がなくとも機動隊が入る事態を何とかして防ぎたい」「処分権は教師のみにあるとする一方的な処分を自明のものとして認めることは教育上、多分に問題がある。」「青山高校の事態を見て、われわれ自身の問題として反省すべき多くの点があることを認める」
 文部省の手引書、つまり高校生の政治活動禁止に対しても「何ら法的拘束力はない。これに拘束される意思はない」』

<都立駒場高校>
『1969年11月18~22日、東京都立駒場高校では全共闘準備委員会(全共闘(準))が「安保粉砕」「沖縄闘争勝利」「佐藤訪米実力阻止」などを訴えて、校舎を封鎖した。学校問題はなに一つ要求されなかった。政治闘争である。メンバーは約15人。全員が同高の生徒で、女子が2~3人含まれていた。
 全共闘(準)は、前日に近くの大学に泊まって、午前4時に学校に向けて出発した。事前に
「レポ」と呼ばれる情報係が水泳部部室に泊まり込んで、教師の見回り、機動隊の同行を探ったところ、教師が泊まり込んでいるだけとわかり、この日の封鎖を決行する。
 全共闘(準)はヘルメットをかぶり、手には角材を持って、学校正面の塀を一列に進んだ。1階生徒ホールに通じる1号館のドアのガラスを角材で割って、鍵を開けて入ると教師数人が出てきた。学校史で全共闘(準)が証言している。
 「女子1人が教頭にはがいじめにされる。角材を振り上げて『離せ』と恫喝、女子をふりほどいてすぐに二階に上がり、二階に通じる全ての階段を、教室の机とイスを持ち出して、階下に投げて封鎖した。・・・夜、女子は山岳部の寝袋で寝た。男子は渡り廊下にあった社研の机の上で交代で寝る。食糧は渡り廊下から縄はしごをたらしてシンパにあげてもらう」(「慕いて集える 東京都立駒場高等学校百周年記念誌」2003年)
 全共闘(準)は機動隊が入るという噂を聞き、理科室で火炎ビンを大量に作った。しかし22日、全共闘(準)は封鎖を解除する。勝ち負けをつけるならば、負けである。一高校が封鎖したところで政治が変わるわけじゃない。となれば、なぜ封鎖したか。
 これは一部の党派や無党派活動家の考え方だが、封鎖はなにか要求を掲げて、それを勝ちとるために行われたとはかぎらない。封鎖そのものを成就させて、高校生が政治スローガンを訴え、学校に突入できたことに意味がある。つまり、封鎖失敗が「負け」であり、封鎖成功が「勝ち」である。』

※  都立大附属高校闘争委員会の72年のビラをホームページ「明大全共闘・学館闘争・文連」で公開しています。

(終

「週刊アンポ」で読む1969-70年シリーズの3回目。
この「週刊アンポ」という雑誌は、1969年11月17日に第1号が発行され、以降、1970年6月上旬までに第15号まで発行された。編集・発行人は故小田実氏である。この雑誌には1969-70年という時代が凝縮されている。
1960年代後半から70年台前半まで、多くの大学で全国学園闘争が闘われた。その時期、大学だけでなく全国の高校でも卒業式闘争やバリケート封鎖・占拠の闘いが行われた。しかし、この高校生たちの闘いは大学闘争や70年安保闘争の報道の中に埋もれてしまい、「忘れられた闘争」となっている。
「週刊アンポ」には「高校生のひろば」というコーナーがあり、そこにこれらの高校生たちの闘いの記事を連載していた。
今回は、「週刊アンポ」第2号に掲載された「バリケードの意味するもの」(都立日比谷高校)を掲載する。


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【「バリケードの意味するもの 日比谷高校 三年Y」週刊アンポNo2 1969.12.1発行】
「ガツン」鈍い音がして、バラ色の血が少女の頬をおおった。私のすぐそばをあの顔が、白眼をむいて引きずられて行った。そして私の眼の前をふさいだジュラルミンの盾のむこう側には、われわれが豚のような顔をした警察官たちに蹴られ殴られているのを、震えながら見物している教師たちの赤い眼があった。10月28日、われわれはそこに、自から教育者であることを放棄した教師の姿を見た。

<立ち上がった一般生徒>
戦後民主主義の美名と欺瞞の上にぬくぬくと安住してきた現教育体制が黄昏をむかえ、その中にあった矛盾が、もはやそれを内包できないところまでふくれあがり、教育自身が自己崩壊をとげようとしている現在、教師たちは「真の教育者であろうと欲すれば、教師であることをやめなければならない」という奇妙なパラドックスに直面せざるを得ない。そして日比谷高校の教師たちは、教師であることを続けるために、あえて教育者であることを放棄した。彼らは自分たちの教え子を、自らの手で官憲に売りわたした。「学校の設備を守る」という大義名分のもとに。その時校門の鉄条網を突破して座り込んだ二百名の学友たちは、けっして学校側のいう「活動家」や「過激な生徒たち」ではなく彼らの言葉を借りれば、真に「一般生徒」たちであった。その中には、全闘連による校舎などの封鎖を率先して批判していた人々の姿さえ見出すことができた。それほどこの警官導入、およびロックアウトの処置は、生徒たちにとってショックであり、学校管理者―教師との決別であった。この時、日比谷高校における闘争は、初めて全生徒のものとなった。過去1ケ月に渡ってくり広げられてきた闘争の間、学校側は問題の根本的解決には何ら目をむけようとせず、ひらすら問題の現象的平常化をあせった。そして生徒の提起した問題にいっさい誠意ある回答をしようとせず、彼ら自身のそのような態度が、ひいては封鎖や授業ボイコットを招いたことを自己批判さえしない。彼らの眼には、あのバリケードは単なる不法占拠された空間にすぎず、うずたかい椅子や机の集積としか映らない。彼らはそこに込められたわれわれの要求や、バリケードの重みを見ようともしない。そしてさらに今、彼らは高くはりめぐらされたロックアウトの壁の内側で、個々の活動家生徒の行った「不法」な行為に対しての処分を検討している。教師とはもはや、我々の管理者として、否、国家に代わってわれわれを管理しようとしている「管理人」としてわれわれの上にのしかかかっている。われわれにとっては彼らが国家である。われわれはそれを10月28日の警官隊導入の時にはっきりと確認した。警官隊の人垣に守られてコソコソとこちらをうかがい、そこに座り込んでいたわれわれを、うさんくさげにながめている彼らを見た時、私は青黒い、イボイボや巨大な突起を持った「国家」という剣竜のぶ厚い表皮を感じた。

<「過渡期」三項目要求>
日比谷高校における闘争は、9月の下旬に全学闘争連合(社研、雑誌部員などを中心としたノンセクト連合)の提起した「過渡期三項目要求」に端を発している。これは「過渡期」という言葉がつけ加えられていることからもわかるように、それ自身として自己完結しないいわゆる要求闘争と次元を異にするものである。三項目とは、「1.3・15警官導入自己批判及び今後一切の警察力を導入しない事の確約。2.文部省指導手引書の拒否。3.都教育庁処分基準案の拒否と一切の処分を行わない事の確約。」である。
 われわれにとって闘争とは、単なる功利的要求でなく、受験という日常性からの脱却であり、自己に対する存在論的問いかけであり、実存的投企であった。われわれの闘争は、近頃ジャーナリズムが面白半分に「灰スクール」などと取沙汰している「われわれの高校生活の虚しさ」から始まっており、また、われわれにとって運動とは、その虚しさの表現以外の何物でもなかった。(そして今、われわれはその虚しさの中に帰って行こうとしている・・・)

<放火という中傷>
 過渡期三項目要求はわれわれにとって一つの闘う砦であった。われわれはわれわれの集会における三項目の討論に、職員会議の参加の要請をくりかえし、そのつど拒否され続けた。しかし一般生徒の三項目要求に対する関心はしだいに高まり、われわれはついに10月6日に、大衆会見を開く確約を学校当局から取ることができた。ところが、学校当局は当の10月6日に卑劣な居直りを行った。大衆会見はいつのまにか学校側主催による「説明会」にすりかえられていたのだ。これは一部活動家学生と一般学生の分割を目的とした。運動を圧殺せんがための学校当局の陰謀以外の何物でもなかった。われわれは「説明会」をボイコットし、再度学校当局に要請したが、回答は拒絶であった。そして彼らはわれわれを、ふだんの授業という日常性の中に引きもどそうとした。このような状況のもとに、全闘連および有志生徒によって日比谷高校の卒業記念館「如蘭会館」及び校門の封鎖が行われた。そして10月12日には八百人の一般生徒諸君によって授業のボイコットが決議され、全職員出席のもとに初の大衆会見が行われたのである。この席上、清水正男校長は全くの人形的支配者であることを、自ら暴露してしまっている。校長は生徒の質問に全く答えられず、学内の状況を全く把握していないことを示したのみか、不法占拠されている講堂において、授業をボイコットして集会を開いている八百人の生徒たちにむかって何を勘違いしたか「このような先生と生徒との話し合いの機会は、私も前々から願っていたもので、それがこのように実現したことは、誠に喜ばしいことと思います。」とやったのである。この校長の発言は、まったくの無知と状況の曲解からきたものか、われわれに対する皮肉を込めた、徹底的な居直りであったかは、諸説乱れとんでいる。ともかくこの大衆会見によって、一般生徒の間に教師に対する不信の声が高まってきたことは事実である。
 また、同時にいわゆる「活動家学生」に対する、学校当局の卑劣な個別的恫喝がひんぱんになってくる。ハンストに参加している生徒や、積極的に教師批判を行っている生徒の両親に対して、学校当局より、担任を通じて「このままでは退学の恐れがある」などとほのめかした文章や電話が行われ、問題児の家庭を訪問して歩く教師がふえている。これは親の心配を逆手に取った教師の破廉恥な闘争圧殺に他ならない。このような学校当局の卑劣な妨害工作はついに如蘭会館放火中傷事件にまで発展する。これは10月24日付の毎日新聞の社会面に、トップ記事として「日比谷高校でナゾのボヤ」と称して掲載された記事の件である。事件の真相は学校当局がバリケード内の水道電気を全て切っていたため、泊まりこみの生徒がつけていたローソクが引火したのであるが、学校当局は「封鎖生徒が腹いせに焼いた疑いがある」と発表、漱石や尾崎紅葉の自筆の原稿などが焼失したとして、世論の反発を買うようにしむけたのである。この原稿は、数日後に、ぬけぬけと「校長室の保管されていたことがわかった」などと発表されているが、この中傷は、学校当局の陰謀であることは既に明白である。

<彼らに怒りと憎しみを>
10月22日、学校当局は大衆会見において一方的に授業再開の発表を行った。その日の午後、6つのクラスにおいて封鎖決議が採択され、全学バリケード封鎖が行われている。ここではっきりと確認しておかなくてはならないのは、この教室の封鎖が、如蘭会館封鎖のように全闘連などの一部活動家によって行われたのではなく、各ホームルームの決議によって、いわば内側から封鎖されたことであり、これが日比谷高校における闘争の性質を表しているといえよう。全闘連はその過渡的な存在の役割は終わったとして自主的に組織を解体し、各ホームルームにおけるクラス闘争委員会および各学年共闘と合流して、真に全学的な闘争を展開しようとしていた。そしてこのように教師が、まったく管理者的な対応しかできなくなってしまった状況において、彼らについに国家という自らの本性を暴露したのであった。日比谷高校において彼らの行ってきた行動は、まさに都教育庁の役割を、そのままなぞったものであった。彼らは通達どおりに官憲を導入し、ロックアウトでわれわれ生徒たちをしめだし、そして現に今、トタンの城の中でわれわれの処分を検討しているのだ。われわれはあの28日、彼らに感じた怒りと憎しみを忘れてはならない。いやあの怒りをこそ、われわれの糧としてゆかねばならない。11月3日、日比谷高校生三百人は警官導入、ロックアウト反対を叫んでデモンストレーションを行った。われわれは闘う。われわれは負けてはならない。今後おそらくやってくるだろう処分、確約書、通行書路線およびすべての当局による規制を認めてはならない。15日現在、学校は木材とトタンのロックアウトによって鎖されたままである。われわれはそれを見る。そしてわれわれは知る。

【編集部より】
「高校生のひろば」は、連載です。あらゆる高校生の生の声を載せたいと考えています。「週刊アンポ」編集部高校生係あてに原稿を送ってください。
次号には青山高、葛西工高、広島の修道高などのアピ-ルが載る予定です。


以上、「週刊アンポNo2」に掲載された記事である。
日比谷高校の闘争はその後どうなったのか?
2012年に発行された「高校紛争1969-70 闘争の歴史と証言」(中央新書:小林哲夫著)から引用する。

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『69年10月8日、全闘連は校内の如蘭会館(同窓会館)を封鎖する。69年3月の卒業式への警察官導入の自己批判、文部省手引書の拒否などを訴えた。17日、教師によって解除。しかし22日に再封鎖する。日比谷高校は23日から休校となった。
10月28日、機動隊が導入され、立てこもっていた全闘連を排除した。このとき、抵抗した生徒2人が逮捕された。校内立ち入り禁止としたが、生徒百十数人が校門を突破して座り込んだ。再び機動隊が生徒を次々とごぼう抜きして排除する。生徒1人、卒業生2人が逮捕された。その様子をじっと見ているだけの教師たちがいる。生徒の多くは「教師が生徒を警察に売っている」と受け止めた。この日、校門には次の掲示があった。
1.日比谷高校職員以外の一切の者の立入りを禁止します。
2.右に違反すると逮捕されます。 学校長
数日後、学校は校門周辺を鉄板で高塀化するとともに、ガードマン6人を雇って警備にあたらせる。また、生徒は入構証の携帯を義務付けられ、クラブ活動は当分なし、ホームルームも行わない。無許可の集会、掲示、ビラ配布は一切禁止。生徒が集まって話し合うことにも神経をとがらせていた。全闘連はビラで「日比谷アウシュビッツ」と糾弾する。
11月3日、27日と、千代田区清水谷公園でそれぞれ生徒約400人が、学校に対して抗議集会、デモを行う。
11月21日、学校は無期停学6人、停学10日16人、訓告10人、訓戒16人の処分を発表した。』

※この「高校生のひろば」の掲載にあたって、ホームページ「明大全共闘・学館闘争・文連」にも、高校闘争のビラをアップしました。(このビラのコピーはK氏から提供していただきました。)今後、「高校生のひろば」のブログ掲載に併せて、ビラをアップしていく予定です。

【お知らせ】
来週は夏休みです。ブログとホームページの更新はお休みです。
次回は7月22日(金)の予定です。

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